「…先生?」
2100年、春、退勤途中、晴れ。
「こんにちは」
私にとっては全壊の概念に当てはまる自転車から視線を離し、振り返る。生徒らしい。誰だったかしら。
「…社会心理学科の狡噛です」
「何年生?」
「…ハァ。一年です」
狡噛君が頭をかきながら近づいてくる。
「将来有望でしょう、分からなくなってしまいました」
「嘘つかないでください」
狡噛君、私が君の顔を覚えられないのは、周りに群がる女学生によるものだ、という認識はされている。群がっている女生徒の顔も覚えていないのに違いはない。
「さっき講義受けたばっかりなんですが。お笑い種ですよ、何で心理学博士が生徒の顔と名前覚えないんだって。毎回初対面の対応されますから」
先生とは大変だ、時々人の顔と名前を一致させなければならないことを強要される。常勤を承諾しなくて本当に良かった。
「博士号自体、私の先生が手直して下さった半分おニューな論文ですからね」
去年から、時々講師として日東学院にお呼ばれしている私は、未だにその労働内容だけは放棄している状態だ。
「知ってますよ。雑賀教授、って方でしょ。俺も講義を受けてみたいです、今度呼んでくださいませんか」
「あら。どう思いました、論文」
彼は私の隣にしゃがみ込み、リュックを降ろして、私の自転車に手を伸ばしてくれている。
「…俺は、例えたまにでも、先生の講義を受けられるっていうからここにしたんです」
私は鞄からハンカチを取り出して、…紅茶だわ、どうしましょう。
「そこの水道から出る水、金銭を対価に購入した紅茶、けれどどちらも人の手が入れられたもの、この倫理と道徳をどう考えます」
機械いじりが得意なようで、全壊の自転車のチェーンが、うまいこと半壊に治療されているというのに。
「……人間のエゴですか?」
ガチャガチャと、綺麗にはめられていく。この子は自転車を治療できるようだ。
「ええ。けれど、私は紅茶が好きだから、勿体ないという概念は捨てられそうにないわ。どうしましょう」
「別にいいですよ、手が汚れるのくらい」
彼はそう言って、私が差し出していたハンカチをもらってくれた。
「即ち、私は自転車や君より紅茶が好きだと言うことです」
「今度洗って返します」
「お礼にさしあげます」
「欲しい礼はさっき言いました。ですから要りません。それじゃ、また。センセ」
私の自転車を全快してくれた、生意気で親切な男子生徒は、来た方向へと戻って行った。
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