ビスク
「えへへへへへ」
「仕事中だぞ。その笑いをやめろ。オジサンに喧嘩売ってんのか?リア充?あぁ?」
「えへへえへへ今日は狡噛さんに昨日作ったカレーお家で振る舞ってあげるんですイイでしょ羨ましいでしょ」
「今日の下着は黒だって?」
「そうですこないだと同じあの大胆な上下セットで――って何ですか。セクハラ反対です」
「こないだと同じ?同じ下着つけんのかよ」
「セクハラ反対です。まだ見せてないので。セクハラ反対です」
「セクハラセクハラセクハラセクハラ、揉む要素も無い癖に偉そうな口叩くんじゃねえ」
「喧嘩売ってるんですね?買いますよ?ストライキしますけどいいんですか?最近ホント佐々山さんみたいになってません?」
「ストレスが溜まってんだよ。手伝えこの仕事の山。和久は俺のことなんだと思ってるんだろうな?」
「マルチタスクさん。お先に失礼しまーす」
「真流賛」
**
東京都目黒区。俺は非常に緊張している。自覚がある。彼女を部屋に上げた時は、自身の領域に好きな女性が居るという現実に、神経が高ぶりそうになってしまって大変だったのに。家になんか上げるもんじゃないな、彼女が動く度にふわりと香る匂い、キッチンに立つ背丈の小ささ、女性だというサイズ感、何度伸びそうになった手をハッと制したか。教えてくれた味噌汁の作り方は見事に記憶されることなく右から左へ抜けきった。
さて。今回は、非常にナーバスだ。お母様が出てらしたら、どう受け答えをするか。脳内シュミレートに忙しい。さんとお付き合いさせて頂いています、狡噛慎也と申します。やっと最近名前で呼んでもらえるようになりました――それは言わなくていい。今日はこういう訳で――
『し、慎也さん。一晩経っておいしいカレーがあるんですけど食べに来ませんか?』
そんな軽く男に誘いをかけるな。にこにこするな。可愛いから。
――兎にも角にもご在宅か聞いておけばよかった。承諾した時の俺、心が強かったのかも分からん。大の男がインターフォンを押すべきか否か迷い続けている様は、そのうち通報されかねない。不審者だ。自覚がある。しかし残念ながら、通報しても俺こそが警察のお兄さんであるので――そうだ、やましいことは、何もない。勇気を出してインターフォンを、押せ、……。俺はこんなに意気地がなかっただろうか。
仕方がないだろう。彼女のセンスの規格外さから予想できうる、彼女の家庭、環境に。自身がきちんと対応できるのか、――はっきりいって失礼をしない自信がない。
お父さんも医者らしいし、大切に育てた箱入り娘を貴様みたいな男に奪われて堪るかとか言われたらと思うと中々に勇気が。俺はお世辞にも育ちが良いとは言えないし。しかしお父さんお母さん、彼女の倫理はもう少し鍛えた方が良かったかもしれません。公共の場で下着の色の好みを聞くのはどうかと思います。
――ガチャリ。――焦った。隣の家か。しかし隣人と目が合った。まずい。もういいさ意気地なしで。
数歩引いて、彼女にニャインで連絡すれば、直ぐに既読がついた。ガチャリ。今度は目の前の扉があいた。
「慎也さん!」
笑顔で扉から顔を出した彼女はエプロン姿だ。そうだな。これは。
ぐ、っと掴まれた心臓をどうにか収めようとしている。何というか、新婚みを感じてしまったのだ。結婚してない。付き合ってそこまで経ってない。その癖に想いだけは強まるので、どうしてこんなことに、と自問自答する日々だ。
「…ん。……すまん、インターフォン押したもんか迷った」
「ああ、すいません。今日お母さん帰り遅いんです。居ても別に押してよかったのに」
お父さんはいつも遅いので腹が立ちます、上がってください。言う彼女について、お邪魔します、と足を踏み入れる。よく整理された玄関、飾りやオブジェがシャレていて、手入れや掃除も行き届いている。やはり彼女の育ちはまるで悪くない、いや、いい方だろう。とてつもなく。しかも本人はファザコンの気がなくはないときてる。まずい。早々にお暇しよう。とにかく彼女は大切に育てられたようである。
学生時代はギノの部屋とか、友人の家とか、遊びに行ってたが。なんつーか。父母と同居してる人間の家、ましてや恋人の家なんかに上がるのはいつ振りだろうか。緊張する。次回はまた俺の家に呼ぼう。それをデフォルトにしよう。とにかく今日は耐えねばならない。心臓は増してソワついてしまうばかりだ。なんか情けなくなってきたな。
「そんなに畏まらなくていいんですよ。私以外誰もいませんって。だから、ねえ、あれやっていいですか?あれ。甘口にします?激辛にします?そ・れ・と・も激甘口?」
そんなのお前に決まってるだろ。じわじわと思い出してくる。こないだそのピンク色の唇を奪ったこと、気の抜けた彼女を抱き締めて残念な程に幸せだったこと。何というか、等身大を生きている感じが恥ずかしくなってくる。もう少し余裕があるように見せたいし、そうありたいが、恥ずかしがりな彼女に、二人きりの時は釣られてしまうことが多い。それなのに本人は無意識に可愛い顔をしてくるし可愛いことを言ってくるし可愛いことをするから堪ったもんじゃない。彼女が少しずつこの関係性に慣れてくれば慣れてくるほど、振り回される度合いが高まっている。このままではやられっぱなしになる、という危機感はある。回避できるとは言ってない。
「ねえ慎也さん。聞いてますか?」
「ああ。お前がいい、って言ったらくれるのか?」
「カ、カレーの味の話をしてますし、言いたかっただけです。もう甘口で作って準備万全なんですから。ベースには本物の海鮮類を煮込んだスープにクリームを足した二日前のご飯であるビスク――っごほん、煮込み続けたビスクが濃厚でコク深いカレーになるために加えられていてですね――」
云々かんぬん、リビング、キッチンに通されると、明らかなカレーの匂いが色濃くなる。彼女が椅子を引き俺を座らせると、テーブルの上に並べられている赤い瓶類を指差し胸を張った。
「さあ慎也さん。ここにチリソースと豆板醤とタバスコと唐辛子とスゴイこーれーぐーすーがあります。どこまで入れますか?」
幸いこーれーぐーすーは知っている。昔ギノにもらって、うどんにでも入れるといい、と言うから半分ほど入れたら、ギノが固まっていた辛味調味料だ。ピリっとしておいしかったけどな。とりあえず青ざめて震えていたギノ曰く異常であるらしい己の味覚に関してはスルーするとして、彼女のニヤニヤしている表情、机に並べられているのは全て辛味調味料。何をさせたいのか見当はつく。
「どこまでって、全部入れられたら豪華景品でもあるのか?」
「ふふん、いいですよ。私がいいっていうなら私をあげても。一皿のカレーにこれ全部、入れられるなら、ですけど」
「いいだろう。乗った」
「えっ」
「自分から言い出したんだ。前言撤回は無しだぞ。もし出来なければ、お前のして欲しいこと何でもしてやる」
「えっ、え、えっ――」
**
とりあえず、まずはそのまま食べていいか? ああ、うまいな。
チリソース、甘みが少しあるな。これもこれで悪かない。
豆板醤、味が濃くなったように思う。まだ少し辛さが足りないな。
タバスコ、結構辛みを感じる。少し酸っぱいような気もするが、うまいぞ。
唐辛子、チリペッパーか。やっとそれっぽくなった。中辛、このくらいが好みだ。
中辛?激辛の間違いでは? 汗一つ垂らさない慎也さんは、一体どうなっているんだろう? さっきから結構どばどば入れてるし、…入れてる。
「……スゴイこーれーぐーすー、足しますよ?」
一滴、二滴、三滴。このスゴイこーれーぐーすーだけ足したとしても、私、いや人間は、スコヴィル値的に、これで涙する。何故なら、このスゴイこーれーぐーすーはとてつもなく辛いやつで、スゴイやつだからだ。
「うん、結構辛いがまだいける。もっと入れてもいいぞ」
「…………???」
慎也さんは人間なのか。彼のDNAを採取し解析する必要がある。また、正直言って、少なくとも、味覚機能に何らかの障害が発生している可能性が高い。どうなっているのか? 慎也さんは更にドカスカ調味料を追加している。オールスパイシー。超えてペイン。
「まあ、少し痛みを感じる気はするが、そこまででもない。好んで食べるかと言われると別だが。そろそろいいか?これ食い終わったら普通のカレーに戻っても」
「え、あ、はい……。――っいえ!食べ終える前に、ちょっと。色々入れてみてもいいですか?」
「どうぞ」
余裕綽々な快い彼の承諾に、私はキッチンへ走った。カレーの味を破壊する調味料、具材、出汁。ありとあらゆるものを引っ張り出す。慎也さんに勝たれちゃ私の命日が今日になってしまうからだ。とにかく相手を気絶させなければ。カプサイシンで死なない味覚を殺せるかどうかは分からないけど、やってみるしかない。
色々と散々、彼のプレートのカレーに足してみて、私は一生食べたくないし、一口食べただけでまともな人間相手なら殺傷事件になってしまうのでは、やだ色相濁りそう、大丈夫大丈夫慎也さんはまともな人間じゃないっぽいから、なカレーと呼ぶにはカレーに悪いカレーを作り上げた。筈だ。
立ったまま机に手をつき、これでどうだと言わんばかりにドキドキ彼の反応を見守る。
一口。二口、三口とふんふん頷きスプーンを口に運んでいる彼の表情は変わらない。
「ん。まあ普通に食える範囲だ」
……慎也さんが人間であるのか否かについて考えるべきだ。私はきちんと人間と付き合っているのか。証明しなければ。さて、手っ取り早い証明方法がある。羞恥心は凄い、凄いが、一回したのだから二回目の唾液交換も同じだと私は信じている。これは緊急事態だ。慎也さんが死人なのか否かについて。ドローンなのか否かについて。ホログラムなのか否かについて。
「…慎也さん???ちょっと、その。キ、キスして、いい、です、か…?その」
きゅんときた。いつも彼は、私に積極的になって欲しいような素振りをしていて、伝えてくれて、私は中々こういうことは言い出せないけど、いつもドキのムネムネを暴走させているんだ。要はピコンと!マークを出したようにびっくり嬉しそうな顔をしてくれた可愛いくてカッコイイ彼の両頬を両手で包んで少ししゃがんで目を閉じて、
「~~~っあ゛………」
辛いもの