実習が終わり、まだ昼過ぎだというのに薄暗い森を、それでも見事な彼岸花の赤を横目に駆け抜けていく。鮮烈な色が真っ直ぐ上へ向いている花姿は素直に美しいと思えたが、その裏には毒が潜んでいることを私は知っている。
いくつもの赤を見送ればそのうちに学園が見えてきて、塀を飛び越え足をつき、やっと息を吐いた。眠いし喉が渇いたし、泥だらけだわでクタクタだ。とにかく水が飲みたい。顔を上げれば、けれど見たくもない髪色が視界に入った。まただ何故おまえはさも当たり前のようにそこにいる。
おまえとは、同級生の善法寺伊作という男である。こいつは保険委員長として慕われてはいるが、生きているだけで死ぬほどの不運を引き起こし、他人すらも巻き込んでいく。おぞましい特徴を持った迷惑極まりない奴である。足を踏み出し枝を踏んづければ頭上から石が落ちてきて、空を仰げば鳥が横切り排出物をかけられる、井戸へ向かおうとすれば落とし穴にはまり――……その様たるや、こいつの魂は無間地獄にでも囚われているんだとしか思えない程だ。絶対にそうに違いない。一体どうなっているのやら。
今もこちらに駆け寄ってこようとしたソイツは、突如地上から消えた。続いてどこからか飛んできた小石が次々と穴に吸い込まれ、鈍い音と呻き声が聞こえた。さすがの不運である。意味がわからない。人知を超えている。この隙にさっさと逃げよう。私は既に重たくなってきた足と瞼を無理やり上げて走り出す。私が選べる道はたった一つ、くの一長屋へ逃げ込むことのみだ。
「助けてくれたっていいじゃないか!」
何やら叫んでいるが無視。本当に何故、実習を終えて疲れている体に鞭打ってこいつから逃げなければならないのか。私は大層疲れているので放っておいてくれ。
今回の実習は、とある城に侵入し密書を奪ってくるというものだったが、厳重な見張りの穴を探すのに数日を費やしたし、腕のいい忍者がいるらしかったので、一瞬たりとも気を抜くことが出来なかった。もし見つかっていたら、悲惨な目にあっていたことだろう。しかし今ではそれよりも、善法寺に捕まることの方が何倍も恐ろしい。名も知らぬ忍者に殺されたとて、そいつは死体を荒らすような真似はしないだろう。少なくとも、私は土へ還れるはずだ。
しかし残念ながら段々と誰かが走る音がこちらへ近づいてくる。落とし穴で夜を明かしてくれてよかったのに。私の足では逃げ切れない?冗談は止めてくれ。はあ、やってられん。中庭を突っ切って、やっとくの一長屋が見えてきた。いやに遠く感じる。必死に逃げつつも、ちらりと後ろ見やって距離を確認すれば思っていたよりも縮まっていた。……なんであれ追いかければ逃げていくのだ、ということを知らないのかもしれない。まあ、例え追いかけてこなかったとしても、私は逃げるが。
前方にはやっとこさ塀が迫って、あともう少し、と足をかけ越える寸前に、後ろから突き飛ばされ体勢を崩し塀と額がお友達になった。擦りむけた痛い。大きな影が陽を遮って私を隠し、首元にヤツの手が置かれ、壁に張り付けられてしまった。
背が高いということは、歩幅もでかいということだってか、この野郎。ああ、塀を超えたところには安息の地が広がっているというのに、そちらへ行かせてもらえない。最悪だ。
「腕退けろこの変「はぁ本当にきれいな頸椎だ、触ってもいいかい」
人の話聞けよ!疑問符すらつけず言い放っただろうこいつは、塀に縫い付けていた片手を離した。私はその一瞬に体勢を反転させ、首へ伸びていた手をすかさず払い落として逃げようと試みたが、逃げようにも逃げられないよう更に身体を寄せられるという、一層ひどい状況を作り出しただけだった。視線は私の首に注がれたまま動かない。こいつは自分の顔のつくりが大層よろしいことだけは自覚すべきだ。
私はその視線から逃げるように俯き縮こまる他なかった。こいつの見目は整いすぎているので目に毒だ見ないに限る。微動だにしない善法寺は、つられるように手を伸ばしては私に叩き落とされて、何度かそれを繰り返したあと、突然飛んできたボールが頭に直撃し倒れた。天誅也!
視界がひらけ暖かい光が差し込む。ばつが悪そうにした下級生たちがこちらを窺っていた。
本当にこいつの不運は尽きることを知らない。なんだか自分が幸運なように思えてきさえするが、こいつに目を付けられた、その時点で既に私の不幸が始まっているという事実からは目を逸らして生きたい。
ぽんと地面に当たって跳ね返り、転がったボールを下級生たちへ蹴り返してやる。何も気に病む必要はない。君たちは私にとっては仏様だった。心なしか後光が差しているようにすら思える。ありがたや。
気を取り直してさあ今度こそ塀を越えよう、と後ろへ下がって助走をつける。しかし直ぐに横から白が飛び込んで来て回避せざるをえなかった。ぽいぽいぽいぽい白い物これは…トイペだ! が飛んでくる。こんなに飛んできては塀なぞ飛び越えられやしない、まるでトイペの雨である。
なんなんだ打たれ強すぎるだろいくらなんでも復活がはやすぎる。度重なる不運により、こいつの打たれ強さは限界値を突破してしまっているのか?
私はそんな特殊能力は持ち合わせていないし、特別に器量や成績が良いわけでもない、至って平凡な人間だ。ただただ普通に生まれ落ちただけの。にもかかわらず、善法寺からの執拗な付きまとい被害にあっている非常に可哀そうなくの一のたまごである。
同級生のくのたまは私の事を羨んでいるが、彼女たちはこいつの本性を知らないからそういう風に思えるのだ。こいつは、どれだけの不運に見舞われようとも諦めることはなく、狡猾な手段さえ厭わないので、いつしかちゃっかりとそれを遂げているという、恐ろしい男なのだ。挙句の果てに、こいつの動悸は変態寄りにずれている。知りたくもなかった。何であれ知ってしまえば、もはや幸せな無知へ戻ることはできないのだから。
けれど、こいつの本性を知る前にだって、私はこいつに優しくたり、深く関わり合いを持ったことがあるわけではなかった。それなのに何故この変態男に付き纏われているのか。本人に理由を尋ねたことがあったが、恐ろしい返事がきたものだ。それは今でも脳裏に焼き付いたまま消えることはない。「君の骨がきれいすぎるのがいけないんだ」聞かなければ良かった。
何かが鋭く風を切る音で現実へ引き戻される。もう突っかかってこないでほしい。早く次なる獲物を見つけてくれ、出来ればおまえを愛している女から選べ。さっさと私の骨への執着を手放して。
「ちゃん、今日は一段と顔色が悪いね。保健室で休んだ方がいいよ」
善法寺は恍惚の色を隠しきれていない顔をして、鼻息荒く心配そうな台詞を吐きながら保健委員の備品を手にしている。さっきの音は鋏だったのか、普通に危ない。それに顔と台詞があっていない。おまえが私を解放すれば直ぐにでも休めるし、付き纏ってこなければ顔色も良くなるわ。
けれど一見は、私の体調を心配して保健室で休ませようとする少々不運の過ぎる優しいお兄さんに見えない可能性がある。許しがたい。見目が良いから。認めざるを得ない、猫のような目を持った端正な顔に、柔らかいけれど男らしい低い声、整った身体。とにかくこいつは見目だけは良いのである。見目だけは。大切なことなので二回言った。しかし騙されてはいけない。こいつは私の骨に惚れている正真正銘の変態だ。そう変態。保健室と言う名のこいつの独擅場へ連行される、それ即ち死を意味する。あそこはこいつのための祭壇だ。何をされるか分かったもんじゃない絶対に嫌だ。単純に死ぬだけでは済まないと思われる。生きたまま解剖されるのかもしれないし、はたまた一息に命を奪われ屍姦された後か、いずれにせよこいつは何が何でも永遠に私の骨を離さないだろう。全く以て気持ちが悪い。
まどろみの中、瞼をあけなくても感じる、何かを煎じる音、独特の臭い。ふんわりとした布団は困憊した身体によく沁みる。信じたくも受け入れたくもないが、私は善法寺と対峙しながら気絶したのだと思われる。しかし幸いにも五体満足ではあるようで、痛みを感じず正常な呼吸が出来ていた。
頭の中で現状を把握し終えると刹那、音が止み、頬を上から押さえられてその奥を確かめるように強く撫でられる。私の意識が浮上したことに目ざとく気が付いたらしい。なんて勘の鋭い奴。吐息が鼻先にかかった。心臓が早鐘を打ち始める。私は確かに生きているはずなのに、まるで裁きを待つ亡者のようだった。もう逃げることは出来ない。せめて睨みつけぐらいしてやろうと重い瞼をもちあげる。
だがやはり、私はもう死んでいるのかもしれなかった。燃えるような赤い西日に染め上げられた天井が全てを表しているかのようだ。
「あんまり怪我しないでよ? いつか君の最期を見届けて、散々犯して肉を暴いたら、骨をしゃぶりつくして飲み込んで――そうして僕は、とこしえに君を手に入れるんだから」
とろけるように微笑んだ、それは閻魔の顔だったか。
紙一重