ホロコスだ、とか、幻影だ、とか、気づかないまにドラッグ注射をされてしまったのかも、とか、ありとあらゆる可能性が私の頭をぐるぐる巡っている中で、突進をかまされて、もういきなり背中に腕を回し固められてしまってどうしようもなかった。引きはがして背負い投げでも決めなければ、ホロコスだったら今にでも殺されてしまう危険すぎる、とか理性的な判断は頭にいくらでも浮かぶのにどうにも体が動かなかった。今まで生きてこれたのが幸いだったらしい。この人のホロコスをした潜在犯に追いかけ回されてたら、私は既にお陀仏でこの世に居なかっただろう。
突進をかます前、ふらふらとした足取りで私の名前を呼んだその人は、とにかく前より増して、マシマシの屈強な肉体で、体当たりというかタックルというかをかましてきた。私にとってはそれほどの衝撃があった。とりあえずこの筋肉はホログラムではないと思うので、私が何をしても無駄に終わる。今刺殺されないことを祈るしかない。
「」
一寸離れて名前を呼んで。間髪入れずに唇を塞いだその人の唇も、侵入してきた舌も、私の理性を停止させるには十分だった。本気で意味が解らなかった。
「ただいま」
あれから、横に付けられた車からフレデリカが出てきて、いよいよこの人は本物なんだって理解しなければならなくなった。「ちょっとびっくりさせたかったのよ」とフレデリカが私に投げつけた物を反射でキャッチしたら、かの日に私の手首を縛っていたデバイスがあった。私はこの人を守る立場にまだ立つことができるのかという思いと、それは今までの全ての私の日々が終わって、未来に踏み出さなければいけないという絶望の宣告でもあって。もう頭の中がぐちゃぐちゃだった。それに漬け込むように局長から――シビュラからのコールが強制的に介入してきて更に私を渦中へ巻き込んでいく。「健勝そうで何よりだ、くん」「…私は、何をしたらいいんですか」私が持ち得る言葉はこれのみだった。
結局この人の存在は、安全は、目下のところ保障されていると。何も危害を加えないと言って、それよりも君には今までのブランクを取り戻しておくことが期待されるだろうとか、なんとか言われ、フレデリカにも激しく頷かれてしまい、回線が切れて。みんな私を置いてけぼりに先に進んでいく、いる。私はあの時から止まってしまって、監視官だって降りて、そのへんで適当に死んだように働いている一般人だっていうのに。「ホシに動きがあるまで好きにしてて大丈夫よ、そうねえ数週間くらいかしら?」とか適当に笑って、私とその人を後ろに付いて来てた別の車に押し込んで、笑顔でひらひら手を振る彼女を目に入れていればそれが勝手に発進していく。「家、変わってないんだな」野性的なのに、あの時よりもっと穏やかになった目許をふっと緩ませて、手を絡めるこの人を、幻だと思ってしまいたかった。
「やめて、触らないで!」家につくなり、「抱いていいか」と口では言うくせに、既に私の衣服を剥ぎ取りにかかっている彼の手を振り払った。振られちまった、とおかしそうに、困ったように前髪をかき上げながら「俺はまだあんたを愛してる」あんたは違うのか、とか、ダメか、とか、続いた気がした。違う、そんな言葉聞きたくない、聞きたくなかった。だって――
「あなたが居なければ!もういないって、絶対帰ってこないって、思ってたから。あなたが居なければ、ただそれだけで私は自由だった。だって私はあなたを死なせてしまえたんだもの」
私の頭の中で。あの日あの時あの場所で、あなたは死んだはずだった。そうでなければ私は生きていけないって思ったから。どれだけ泣き縋ってもあなたが私を連れて行ってくれないことなんて最初から分かってた。あの時私を連れて行ってくれるような人であったなら、あんな結末になってない。
それでもあなたが自分で、最後を決めて、全てを置き去りにいったくせに。今更愛してるなんてどの口が言うの、甘えないでよ。あんたのせいでどれだけ私が、私たちが、みんな大変な思いをしたと思ってるの。それでも私たちはあなたを止められなかったから、けれど、だから、あなたはあそこで死んでしまったの、私はあなたを心の中で殺すことでやっと生きてきたの、自分の無力さから目を逸らして。
「でも絶対そんなこと願ってないの、だから生きてることを疑わないでいて、それでもあなたを殺してしまえば過去のことにしてしまえた。全て終わったことなんだって、終わりにしたまま生きてくることが出来た、それなのに」――なんで帰ってきたの。
言えなかった。「あれから俺も色んな物を見た。世界は思ってたよりも広いこと、復讐の果てに待っているのは碌なもんじゃないことも分かった。だがいつだってあんたのことだけは忘れなかった、忘れられなかった。自分から手放したっていうのにな、虫のいい話だよ、全く」自嘲したように鼻で笑ったその顔は随分大人びて見えた。「だから、二度と手放したくない」やめて、触れないで。その体温を本物にしてしまわないで。
「ここにいて、見て、触れて、こうして、心臓が動いてるの、あなたが生きてるって、ここに居て私を抱きしめてるって、ただそれだけで私はあなたを殺せなくなる、」「ああ、俺は生きてる」「嫌だよ、怖いよ、私はまたこれからずっと、目の前であなたが死ぬことを覚悟して生きて行かなきゃならないの」ただそれだけが、自らが死んでしまうより怖かった。「誓うさ、もう決しての傍を離れない、死が俺達を分かとうと、それだけだ」
俺が死ぬとき、それは俺が役目を終えたときだろう。あんたより先に死んでやるつもりは毛頭無いが、あんたが先に逝ってしまうのも想像できないさ。生き死になんてそんなものだ、今この瞬間に生きている人間が次の瞬間には死んでいるんだ。それなら、俺はあんたと居たいと思った。人はいつか死ぬ、それがいつかなんて誰にも分からない。
それでも俺が役目を終えるまでは、あんたと居たい、それだけだ。
随分と即物的な発想になったものだった、この男も。拠り所をくるくると変えては失って、それを終わらせて、最後の最後にそれを愛と据えて図々しくも私の元へ戻ってきた、私がまだ彼を愛していると疑いもせずに。ぎらぎらと燻る獣の熱は変わらずになお私を求める。あなたが私を愛しているうちに、私があなたを愛しているうちに、今この時に二人分の心臓を貫いて死んでしまいたいと思った。今ここで止まれば永遠になれるはずだなんて馬鹿なことを思った。でもその答えはさっき慎也くんがくれたばっかりだ。屍の上に立っているんだ、きっと二人碌な死に方は出来ない。
「俺が先に死んだら、あんたは俺に縛られず残りの人生を幸せに生きてほしい、とはもう言ってやれない」
「死んだって離してやるもんですか」
「がいなきゃ生まれないさ」
旅の終わり