『海に入ってみたいの』
それが彼女の口癖だった。
彼女を無理矢理連れ出したことは数知れず、俺の色相を気遣う彼女をあの手この手で言いくるめて、二人で色んな所へ行った。濁り切った水、暗い空、夜景、レインボーブリッジ。二人、手を繋いでた海辺の公園で真夜中、今そんなことを思い出している。
随分と軽くなり、俺の手に軽々と収まるようになってしまった彼女は、正反対の死に方をした。焼け焦げた中にハッキリと残っていたところ、薬の指だけもらってしまおうかなどと思った俺の精神状態は、シビュラ曰く正常だそうだ。
骨壺を開けて触ってみて、指に付着したザラリとする感触をほんの少しだって、どこへも行かせたくなくて、唇で撫でて食んでみる。
せめて、と思う片や、なんら俺のものになってくれない彼女を呪いたいような気持ちだ。いくらお前の希望だからと言って、本当は俺の手元から放ってしまうなんてもう気が狂いそうだよ。
そうは思っても仕方がないから諦めて、少し手に掬ってみれば、いとも簡単に風が彼女を攫っていった。波へ乗ってどこへでも行ってみればいい。波打ち際や浅瀬に撒いたって、意外と遠くへは行けず、波打ち際へ打ち上げられるばかりなんじゃないのか。もう少し深いところでやってやるのがいい。もう少しだって手放してやりたくない。本人の意思を尊重しないでどうするんだ。結局俺は、これから前を向いて、次第に彼女を忘れて生きていくんじゃないのか。ほんの少しでも海水に触れてみろ、般若のような顔でが怒ってくるぞ。自分を大事にしろって口を酸っぱくいつも言い聞かせてきた彼女の望みは俺が幸せでいることだろう? そう言い聞かせてそれなりに生きていくんだろ。何もかも嫌だ。今はただただ考えたくない。
なあ。どうして俺のすべてを受け入れておきながら、お前のすべてをくれなかったんだ。俺はずっとお前だけが欲しかったのに、最後の最後までお前はそれに漬けこんで俺に灰まで撒かせてる。
お前が最期に何を見たのか、考えたのか、何を思い出したのか。苦痛は感じなかったか。少しでも楽に死ねたか。何一つ知る術を持たない。こんなことになるくらいなら、撃ってやればよかった――なんて、冗談だよ。
俺より一日だけ長く生きて、同じ墓に入って欲しかった。
さらりと頬を撫でる風は俺の背を押す風と同じで、また一歩踏み出して真っ黒な水面を眺めるばかりだ。このままいけたらどれだけ楽だろうなんて思いはすれど、生憎そんなタイプじゃない。
対岸の灯りも水平線も、何もかも見えはせず、俺の顔だけが水面に歪んで反射している。
環流