「……狡噛、なんでお前はそうなんだ」
「なんのことですか」

 好きな子を虐めちまう小学生かおまえは。
 雑賀は内心溜息をついた。歩み寄れと促したにもかかわらず、結果はこのありさまだ。
 講義終了後、スタスタと一人で速やかに教室を後にしていったのように、礼を言い軽く頭を下げ、何も無いならこれで失礼します、と狡噛まで出ていこうとする。

「狡噛は残れ」

 仏頂面で足早に出口へ向かっていた狡噛を雑賀は呼びつけた。話を始めるのは、他の教え子の退出を待ってやる。
 狡噛は何食わぬ顔をしているが、よく見ると些か口周りを硬くし唇が突き出ていないこともない。明らかに不満を持ち意地を張っているという様子である。も普段通りを装っていたが、二人には明らかに距離があった。物理的にも、心理的にもだ。
 こんなことは初めてだ。
 狡噛とは監視官として同期であり、仲睦まじい、というのが公安局での共通認識であったが。
 教室の扉を閉めながら、雑賀はまた溜息をついた。いつの間にか頭を抱えていたようだ。あまりこのようなことに介入するのは本意ではないが、狡噛がこうなってしまっては致し方ないだろう。事の発端は――
「慎也。なんで私のクリームパン食べたの!?」
「は? お前が俺のカレー食ったことあったろ。今度なんかもらうって約束した」
「いつの話してんの!」
「重く窃盗罪としても、三年以内、だ。まだ全然時効じゃないな」
「あのクリームパン、手に入れるのが凄い大変で、最後の一個買えたのに……」
「今度一緒に買いに行くか?」
「何年後の話してんの?」
「まあ確かに、俺とお前が同時に休みになることなんか滅多に無いな」
「ならなんで提案した。なんで食べた」
「ちょっとからかってやろうと思って? それとも、ただのしっぺ返しだ、の方がいいか? 佐々山とは行ったんだろ」
「いい度胸してんじゃない」
「悪いな、元々こういう性格だ」

 喧嘩の発端は些細な事と言ってもいいだろう。しかし、どうやらそのクリームパンはが大層楽しみにしていたクリームパンだったらしく。口論は激化していった。いつもは狡噛が適当なところで折れて終わるものも、その日の狡噛は虫の居所が悪かった。

「こないだだって監視官が一番前を走る!? 怪我して帰って来るし!」
「部下には背中を預けているんであって、誰が先行するとかは考えていない」
「それはそうだけど、もうちょっと自分の身体大事にしてくれたっていいじゃん!」
「多少の怪我と事件の解決、どっちが大切かは言うまでもないだろ。それにお前だってこの間怪我して帰って来た」
「そういうこと言ってないし慎也は重症で私は軽症でしょ。そんなんで帰って来たかと思えば靴下丸めたまま洗濯機に入れるしさあ!」
「今それ関係ないだろ」
「後先考えてよって言ってんの」
「俺のカレーを食ったお前の行動は人のこと言えるのか」
「慎也のカレーは同じのが二個あったじゃない!」
「その結果が今だな。過去にカレーを食ったから今日のお前のクリームパンは無くなった。それだけだ」

 ぐ、と彼女は言葉に詰まった。この男、どれだけクリームパンが食べたかったんだ!

「慎也のバカ。もう知らない!」
「あえて聞いてやる。それから、どうしてこうなった」

 なぜ謝らなかったのかと言っているんだ。狡噛には雑賀の言葉の裏に隠された意味が明確に理解できた。そして、なぜそれを先生が直接言葉に出さなかったのかも。だがやはり妙な意地を捨てきれない。現に彼女に謝れていないのだから、それもそうだ。

「そりゃ確かに、は昔、俺に詫びカレーを持ってきましたよ。でもそういうことじゃないでしょう」
「じゃあどういうことなんだ、狡噛」
「アイツが素直に言ってくれればよかったんです」
「責任転嫁、自己矛盾と呼ばれるものだな。男の嫉妬は見れたもんじゃあないぞ、狡噛」
「…………」

 みんなして、俺だけが悪いみたいに言いやがる。
 呆れかえっている雑賀の目に、狡噛はハァーと長い溜息を吐き出した。
 分かってはいる。が、認めがたい。俺だってのことを心配しているだけなのに。どうしてこうも言われなきゃならないんだ。
 別にクリームパンなんかどうでもいいし、彼女が食べた俺のカレーだってどうでもいい。俺はお前がそのクリームパン佐々山と二人で買いに行ったって聞いたから怒ってるだけだ。と、これ以上、何もかもお見通しの雑賀先生に逆らったってしょうがないし、先生を困らせるのも本意ではない。
 狡噛は軽く肩をすくめ降参の意を表し、雑賀を見直した。
 行動では諦めているようだ。しかしその眼はジットリとしていていかにも“不満があります”と。そう顔に書いていた。
 男のロマンも意地も、女性には理解してもらえんよ、と雑賀は言いたくなった。まあその前に、狡噛の反省を聞いてやろう。

「……俺を心配してくれてただけの彼女に、俺がふがいないって話です」
「いいだろう」

 合格だ、と雑賀は続ける。

「まあそうだな、自棄にはなるな。まだ意地っ張りで済む範囲だよ。あとはほんの少し歩み寄るだけだ」

 な、狡噛。と雑賀が狡噛の肩を押した。つい数日前にしたやり取りそのままだ。
 ハイ、と狡噛は返事をして、ふてくされた顔で講義室を後にしていった。
。……なんだ、その」

 あー、だとか、うー、だとか。煮え切らない。狡噛はこんなに意気地のない男だっただろうか。いいやプライドが邪魔しているのだろう、と彼女は結論付ける。
 どうせ雑賀先生に何か言われたに違いない。謝りに来たようだが“納得していない”と狡噛の顔には書いてあった。
 はその一つのクリームパンを、狡噛と一緒に食べたかっただけだった。狡噛が食べたかったなら、その場で一言狡噛が謝ってくれたならそれで良かった。楽しみにしていたし半分残しては欲しかったけど、食べちゃってても許したはずだった。
 ただ、狡噛の態度が癪に障ったのだ。
 重傷を負って入院していた彼が退院し、帰って来てから一週間と経っていなかった。被害者の死亡で幕を閉じた事件だったから、狡噛が苛立っているのも理解はできた。ただ、は狡噛のことを勿論心配したし、狡噛にそのことを、もう少し考えて欲しかっただけだ。
 自分の身体を大切にして欲しい。そう伝えたかった。伝え方も悪かったと思うけど、あんな風に開き直らなくたっていいじゃない。慎也が謝って来るまでは絶対に謝らない、と固い意志で彼女は数日を過ごしてきた。
 そんな彼女のキツイ目線に狡噛は段々と居心地が悪くなってきて、折角二人で一緒に居るのに、何でこんな険悪に睨み合っているんだと冷静になり始める。さっさと謝って仲直りすべきだ。

「悪かった」
「何が」
「だから、クリームパン食ったことだ」
「ホントに悪いと思ってるの?」
「思ってる」
「ホントに思ってるの? 詫びクリームパンだってない癖に。私は詫びカレーしたのに」

 取り調べでもしてんのか。彼女の訝し気な目線に狡噛は眉間に皺が寄った。

「思ってるわけないだろ」
「思ってないんじゃん」
「思ってないな」
「思ってないのに謝るとか意味が分かんない。慎也らしくないし、私、そういう人好きじゃない」
「そんなに嫌なら俺を振るか?」

 狡噛は真っ直ぐにを見て言った。は息を飲んだ。なにそれ。と、怒りとショックで頭を殴られたようだった。
 ツンと鼻の奥が痛くなって、じんわりと視界が滲んでくる。泣かない。絶対泣かない。泣かない!
 泣くのを堪えるので精一杯なは俯いたまま返事をしない。
 がひどく動揺しているのも知らず、いつまで経っても返事をしない彼女を、痺れを切らして狡噛が覗き込む。
 狡噛としては、別れるつもりがに無いということに確信を得ての返答であった、し、何なら否定して欲しかった。どうして何も言わない――。

「……な、おまえ、」

 今度は狡噛が頭を殴られたかのような衝撃を受けた。うるうると潤んでいた彼女の目から、ぼたり、と大粒の涙が落ちたのだ。

 ああもう、全部俺が悪かったのでいい。俺が悪かったから泣かないでくれ。俺が悪かった!

君が泣くまで止まらない