「宜野座監視官!」
ぱたぱたと、フラットシューズでギノの近くへ寄って行っていった彼女は、「報告書今あげました!ので、カフェラテを買ってくるというご褒美してきます。頑張ったでしょ!」にっこり元気よく報告をして、ギノの制止も聞かず部屋を出て行った。
「…………なあ、ギノ。何故お前は名前で呼ばれているんだ」
「何を言っている狡噛。俺は名字で呼ばれている」
「…そうじゃない」
些か死んだ目になってしまった自覚はある、隣で佐々山が笑いを堪えている姿にさらにそれが進む。そんなんでもやっとだ、佐々山のことは少しだけ分かり始めたような気はしているんだが。俺の受け持っているもう一人の執行官、。彼女は、俺に友好的に接しているよう見せかけて、その実俺を頼ったことも、理解を求めたことも無いように思う。そこにしっかりと見えない線が引かれていることだけは分かる。彼女は一度も俺をきちんと呼んだことが無い。コウちゃん監視官、とは時たま呼ばれはする、だがそれは茶化しているものの一つに過ぎない。ギノなんかは、そのビシッと引かれた線に安心しているだろうし、そういう風にわきまえている彼女を評価しているのが分かる。だが俺はそういうタイプではない。…彼女がギノの部下ならうまくいったんだろうとも思うさ。
「狡噛、お前、チョーかわいそうだな、直属の上司なのに」
「……何故なんだ。嫌われてはいないと思うんだが…」
「お前、マジか。ホントに気づいてねぇの?」
「…だから、彼女が俺の名前を…名字を一度も呼んだことがないという事実には勿論気が付いている」
「ちっげぇよそうじゃねえ、やっべぇお堅い監視官共死ぬほどおもしれえわ。お前も宜野座監視官様と変わんねぇな、…っぶは、ひっ、だめだ俺死ぬかも、死因、爆笑死あっはっはっは」
なんだこの絵面?と思ってドアを開けたら、ひゃーとかひーとかはさみつつゲラゲラ笑ってる佐々山がとってもうるさかった。
適当だけど一応最後まで書ききった報告書を今回の事件の責任者である宜野座監視官へ送って報告をしたのが5分前くらい。部屋を出て向かいにある自販機で無糖の方のカフェラテボタンを押して、悲しくも即座に吐きだされてしまったそれを手に取ったのが3分前くらい。それからあったかいそれを両手で包んで、るんるん廊下を歩いて戻ってきたら、頭を抱えている狡噛さんと、腹を抱えている佐々山と、デスクトップの画面を抱えている宜野座監視官が部屋のガラス越しに見えたし、入室した今もその状態なんだけど。
「…このたった5分程度に、一体何があったんですか」
「……報告書を今すぐ修正しろ!!!」
「狡噛が、ばか、すぎる」
「…大体あんたのせいだ」
聞いてみたら、上から宜野座監視官、佐々山、狡噛さん。
「誤字脱字が多いにもほどがある!なんなんだこれは!」宜野座監視官が吠えている。今度ストレスケアの観葉植物でも送ってさしあげよう、デスクに置かれてるから。でも私だって頑張って書いたのに。半分寝てたかもしれないけど。だからサボテンを贈らせてほしい。花言葉はあたたかい心とでも教えておこう、実際それも一つある、それ以外の意味は私からは無い。まあ一番大きな理由は、愛でようとしてトゲトゲに刺されてしまえ、というちょっとした心である。
それから、あーとかうーとか言っては無いけど、何かいいたそうにしている狡噛さんを促そうと思って「監視官?」と首を傾げて伺い見れば、その眼は更に死んだように見えたと思ったら俯いてしまった。隣で佐々山は腹を抱えてのた打ち回り始めている。カオスすぎる。征陸さんがいないというだけで、こんなにも収拾がつかなくなってしまうなんて。
狡噛さんは何も言いださないし、この混沌から逃避しようと宜野座さんから届いたファイルを開け、て、頭がシャットダウンした。これからも逃避しよう。みんな仕事してないし。私もここで寝てしまっても怒られない気がする、睡眠に逃げよう。苦しい――。
3秒でうとうとしはじめたのに、首根っこを掴まれたようで、ちょっと地味に結構かなり苦しくてつらい。佐々山だろうか、宜野座監視官だろうか。後者だったらごめんなさいするから許してほしい、仕事はしたくないけど、しかも宜野座さんがそんなことするなんてありえないと思われる。のでその誰かという名の十中八九佐々山は、そのまま私を椅子ごと引き摺りはじめた。くるくる回る滑りのいい足がついている椅子が賢いので、私はまだ死なない程度に息が出来ている。こめかみの血管が切れそうな宜野座監視官と、ヒュー!とかいってる佐々山が見えるので、佐々山が見える。――あれ? ということはおそらく狡噛さんが私の首根っこを掴んでいるらしい。
…………えっ狡噛さん!?
珍しい珍しすぎるなんだこの暴挙、一体何が「かんしk」ガタン、「いっgyふじこlp!」舌噛んだ!「す、すまない!」ぱっと首から手が離れて自由になったので、佐々山のあっひゃっひゃっひゃみたいなレベルになってる笑い声を聞きながら、椅子の上で膝まで抱え込んで丸まって口を押さえた。痛い。
「大丈夫か!?」くるりと椅子を回されて、下に向いているままの視線も一緒に激しく回ったけど、部屋の出入り口のでっぱりっていうかあの、あれに、椅子がけっつまづいたらしいことが窺えた。視線を中央に戻したら、屈んで私を覗きこんでいる狡噛さんのつむじが見えてすごく新鮮な気持ちになった。しかし痛い。
恨みがましい視線を、さらに目線を下げて、狡噛さんに、送る。いつも首が痛いほど見上げているのがデフォルトなので、こんなことは初めての体験だし、思ったより距離が近くてびっくり。でも今はとにかく舌が痛い。
「…なんなんれすか、かんすぃかん」
何故いきなりこんなことをされたのかちっともわからない。
「……ちょっと来てくれ」
立ち上がって、話がある、とその人は私に手を差し出した。その手を取るか非常に迷う、取りたいんだけど本当に取りたくなくて、取ってはいけなくて、いけないんだけど、後ろに二つの目線、いや四つの目?があると思うと、狡噛さんから差し出してもらった手を取らないわけにはいかないと思われるので、結構な時間は要したがそれを取った。それからしっかりと握られ引かれて立たされて、そのままなんだか連行されるようだった。思ったよりもずっと、この人の手はかたくて大きくてしっかりしている。頼もしかった。それにしたって今日のコウちゃん監視官ちょっとおかしい。犯罪係数大丈夫かな。
彼女がかなりの時間迷ったといえども俺の手を取ってくれたので、佐々山を爆笑死させることは失敗した。失敗したことについては誠に残念である。本当に、あまりにも長い間沈黙が落ちてしまったので、俺の手にすら触れたくないのか…とショックを受け始めたぐらいだった。彼女が恐る恐る手を取ってくれた後、しっかり握っても嫌がっている素振りは見られなかったと思う、正直言ってほっとした。彼女を立たせ、ギノの遠吠えを聞きながら部屋を後にする。スマン、ギノ、あとで何か埋め合わせをするから許せ、好きなんだろう観葉植物でも贈ってやるから。
――ぱたぱたと、彼女の足音だけが俺の後ろに響く。それがギノの元へ行くのではなく、俺の後ろに続いているというだけで、ともいえぬ何かが満たされていくのを自覚できた。支配欲?征服欲?――違う。部下が従っていることで、自らのプライドが満たされている?どれもしっくりこない。何故だ?――「手、離してください」俺は誰かの手を握りたかったのだろうか?そんな子供じみた。しかし誰でもいいわけじゃないだろう、彼女にもっと頼ってほしいのだろうか?――
「――――監視官!ちょっと待ってください、はやい、」――彼女の少し大きな呼び声にやっと思考が中断する。ひたすらに熟考していたら大股になってしまっていたようだ。「すまない、」
「あとあの、もうフロア、一周したんですけど…」
「…………すまない」
人を無理やり連れ出しておいて、考え事をしていたというのも気が引ける。今日はなんだか謝ってばかりだ――実際謝らねばならないようなことをしているんだが。また少し歩いて、さっき彼女が来た場所とは反対方向だろう簡易的な休憩所へ行き、やっとその手を離し、ソファへ座らせた。自販機を前に、「まだ飲むか?」「あ、えと、はい」カフェラテとコーヒーを吐きださせ、俺も向かいのソファに腰を下ろし、カフェラテを開けて渡した。
「なんでそういう微妙な顔をする」
「いやあ、紳士的でかっこいいなと思いまして、ありがとうございます」
「………俺はもっと部下の事をよく知るべきだと、知りたいと思っている」
「充分存じて下さっているじゃないですか、私がカフェラテ好きなこと。無糖なところまで完璧です」
「違う、もっと深い所を、そういう事を知りたいと言っている」
「もう充分ではないですか。それに私は潜在犯ですし、監視官は監視官なんですから、「そうだ、それだ」はい?」
「お前俺の事を呼んだことすら一度も無いだろう、どうしてだ」
「いつも呼ばせてもらってます、コウちゃん監視官って」
「分かってるんだろう、俺の意図が分からなきゃその返しは出来ない」
口を尖らせた彼女が考えている様子でカフェラテに口を付けた。
「……ところで、話って何なんですか」
「すまないが、はじめからそれについてだった。疑うならあとで佐々山から証言を取ってくれて構わない」
「ええー…なんでいきなり」
んー、とか、えー、とか、んん~~、とか言い淀んでも、まるで譲る気がないらしい狡噛さんは、だんまりを決め込んで真っ直ぐと私を射抜いている。あまりにも視線がぶれないものだから、シャツはヨレていないだろうかとか、さっき首根っこを引っ掴まれたことで襟が崩れているのではとか、髪の毛ぼさぼさじゃないだろうかとか、いらない方向に思考が飛び始めて、もはや何と返そうかなんて考えられなくなり始めてはいる。カフェラテがまだ温かいうちにしか出来ないので、肌寒い季節だということを言い訳に、いや空調は整っている、寒がりなんですということにしておこう、それに頬をつけて暖を取っているふりをする。
「私、合理的な方が好きなんです。直属の上司はコウちゃん監視官だけだから、監視官って呼ぶのが一番楽だなって、みんなも私が監視官を監視官って呼んでいるのをきちんと理解してくれてるわけですし、」
「」
ぴしゃりと呼ばれる。どれだけ目を逸らしても、揺るぎないその瞳が私を追いつめていく。
「名字できちんと呼んだら軽口が叩きにくいじゃないですか、もっと距離が遠くなりますけど」
「」
「…一体何でそんなことを、今になって気にされてるんですか」
「今になったからだ。…まだ俺は信用できないだろうか」
何を言ってるんだこのご主人様は。カフェラテを一口、大分ぬるくなったそれをおいしく味わって飲み込んで、止まっていた呼吸を深いため息を吐きだして再開した。佐々山が爆笑していた理由が分かった気がする。
「あなたは私を撃たない」
「お前は撃たれるようなことをしていない」
「無茶な命令もしない」
「当然だ」
「そのくらい当たり前のこととして、私はあなたを信用しています」
「……ありがとう。でもそれなら、何故――」
「何をそんなにこだわってらっしゃるんですか」
「…それはお互い様だろう」
またもだんまりを決め込んだ狡噛さん、女相手の取り調べだけはいい線いくかもしれない。
呼びたくないからです。――その先に追及される理由がなさすぎる。かろうじて、
あまり監視官と親しくするのもよくないでしょう。――いや、だめだ、俺は親しくなりたいんだとか返されるに違いない。
私が親しくしたくないんです。――そこはかとなく悲しい気持ちを嘘で作って渡したいわけじゃない。感謝こそしていても恨んでいるわけがない。
狡噛さんの、少し緩んでいた眉間のしわが、また険しくなっていく。誤魔化したいのにその視線が苦しい、言い訳も苦しい物ばっかり。しかも、狡噛さんのそのしわと比例?反比例?するように、少しずつ頬に熱が集まり始めるのを止められない。尋問されて興奮してる人間みたいでちょっと嫌だ。でも仕方ない、顔もよすぎるから。そろそろ限界だと思う、そのスーパーハイパーウルトラハイスペックの最終考査ポイントと同じくらい鈍感なこの人でも、そのうち私の頬の赤みに気づいてしまうだろう。だからここで私の潜在犯落ちした腕の見せ所、あなたがなんて答えてくれるかなんてほとんど分かってるんだから、優しすぎるんだ。今回は拘ってるみたいだけど、あなたがその理由に気づこうが気づかまいが、何一つ変える気はないの。どうか綺麗なままでいて。いつかあなたの為に命を使いたいから。
「こうちゃん監視官今日もかっこいいですね。ので、あまり凝視されても困ります」
「答えればいい話だ」
「照れくさいじゃないですか。ご自身の見目はよいことを自覚してください」
「…中身がよくなくて悪かったな」
「そんなことないですよ。いいじゃないですか、見てるだけでも。――ごちそうさまでした」
言葉通りに、完全に冷め切ってしまったカフェラテを一気に飲み干したけど、顔の熱は引かないのがかなしい。
けれど私は答えた。答えてさしあげた。絶対にこの監視官にはわからない方法で、まだ。こんな底意地の悪い言葉遊びなんてクリアカラーの人間には理解できないだろう。それでいい。
立ち上がって、わけがわからないという顔をしている狡噛さんを横目に、その缶を捨てて、振り返りもせず立ち去る。
――ほら、わかってるじゃないですか、私のこと。少なくとも、私が今答えをおいていったことは、この人は理解してる。まだ話は終わっていないって、佐々山のことはしょっちゅう追い掛け回してるくせに。
ああもう、絶対宜野座監視官は怒ってるし佐々山は根掘り葉掘り聞いてくるに決まってる。一人でぐるぐる考えても分からずじまいになるだろう狡噛さんはきっとまた死んだような目になって戻ってくるし、佐々山が面白がるだけならいいけど、間違っても意味を教えないようにきつく言っておかなきゃ、ていうか知られてるの悔しい。狡噛さんも狡噛さんだ。
だからこそ言えるわけない、本当のことなんて。呼んだりなんかしたら、その度に反芻されて、もっと膨らんでいくことは分かり切っているから。私はこの空を眺めているだけでいい、綺麗な月がよく見えるだろう。
箱庭の真