「ぴよ噛さん、ぴよぴよ噛さん。わん噛さん」
彼女がにこにこ俺を覗き込んでいる。嬉しそうに身体を左右に揺らしている彼女は、これから血みどろの追いかけっこが始まることを理解していて、いない、と。思っていたのは初回の出動だけだ。彼女は心底それを楽しみにしているのだと今は理解している。受け入れることは一生無いだろう。どうにか矯正してやれないものだろうか。
なんというか、その様は本当に、嬉しそうだ以外に表現しようがない。彼女についている尻尾がぶんぶん振られている幻覚を見てしまうレベルだ。頑丈な首輪を嵌めなければならない。手首にゃ嵌まっているのに、俺はそのリードをまるで引けていないと思う。自覚はあるが、悟られてはならない。
「行くぞ」
「はぁーい」
少しは静かにしろ。言いたい気持ちを堪え、二人、廃棄区画を進んでいく。彼女の足がカンカン何かを弾いた。カンカンカンカン、…リズムを刻んでいる。……完全に遊んでるだろお前。
「遊ぶな」
「わんわんわわーん。わんわんわわーん。泣ーいてばかりいるぴよ噛さんー」
「狡噛だ。もう少し声も押さえないか」
頭を抱えため息をつき再度歩き出そうとすると、 悲鳴が聞こえた。潜在犯の、男のものらしき怒声も。
「シビュラのお巡りさん。行ってきまーす!」
「っおい一人で行くな。っああもう、クソ!」
待てを堪えきれなかった彼女が、ニッコリ敬礼をして走り始める。勝手知ったる風に廃棄区画を進んで行く彼女を追いかけるも、「狡噛さんはあっち!挟み撃ちしましょ!」三叉路で向こうを指さされウインクされた。緊張感が無い。危機感が薄れる。まあGPSも機能しているしいいか、従ってやろう。彼女の方が廃棄区画に詳しいし、恐らく回り込めるのだろう。彼女の言う通り別ルートで俺もホシを目指す。
とはいえだ。アイツは本当にいつになったら、命令を守って、こちらの話を聞いて、一人で突っ込んで行くのを止めるのだろう。まあ一番最悪なのはアイツが仕事出来ることだな。出来なきゃとっくに施設に返されてるだろうぐらい素行が悪いのに、とにかく狙った獲物を逃がさず確実に仕留めてくる。その執念は異様とも言えるだろう。“きちんと仕留めて戻って来るんだから放っておいてよ”初出動の日、彼女が言った言葉は今のところ守られている。なんなら報告書も真面目に上げるしな。だから誰も彼女をそこまで強く叱らない。
…なんだかこれじゃ褒めてるようじゃないか。単身で動くなんてこんなことを続けてしまって、いつどちらが帰って来なくなるとも知れないというに。いつもいつも止めることが出来ない。どれだけ注意しようが購入申請を却下しようが聞く耳持たずの彼女は今日も独断専行であるし。おっと、目の前には壁。片側の道の先は崩れ落ちている。もしや行き止まりじゃないだろうな。
「えいっ」
視界の端を光線が貫き、気の抜けた声と無音の時が過ぎて行って、何かが倒れる音がした。男の絶叫が響き渡る。振り向いて目を見開くと、半壊している足元の先、返り血を浴びている彼女が頬をひとつ拭いながらニコニコ手を振っている。一寸遅れて被害者女性の悲鳴が耳を劈いた。
そうだよ何してる。呑気に手なんか振ってるんじゃない。早く被害者を保護しろ。目を覆え。フォローをしろ。――全く期待できないのは分かっているので、濁らないでくれよ、と思いながら必死に来た道を駆け戻る。最悪だ。まさか知ってたんじゃないだろうな。
苛々しながらの元へと急ぐ。男の怒号と女の悲鳴、の楽しそうな笑い声と聴覚がバグでも起こしているようだ。またアイツ遊んでやがる。
走って走って向こうの棟へ渡り部屋が近くなってくると、噎せ返るような血の臭いが充満していていよいよ気分が悪くなってくる。に怒鳴りながら部屋へ乗り込むと、異様な光景に思わず足を止め、その場に立ち尽くしかなかった。
生きているが、首が傷だらけで肉が見えている。五体満足とは言えない潜在犯が、地面に裏返されに圧し掛かられ悲鳴を上げている。彼女はそれを更に噛み千切って吐き捨てた。それからペッと血を吐いてから落ちている廃材を拾い、その頭を滅多打ちにし始めたから、俺は反射的に口元を覆った。男は直ぐに動かなくなり、視界には彼女が廃材を振り続ける規則正しい動作だけが繰り返されている。
いつの間にかその場に声は無くなっていて、何かが何かを殴りつけている鈍い音だけが何度も鼓膜を震わせていた。頭がカラで、口の中が乾いているなと思って、思考には靄がかかり、ぐにゃりと視界が歪み、立ち眩みを起こしかけたのだと理解する。何が起きているというのだろう。これは現実だ。
「――っやめろ!何してる!」
「え?何がですか?まだ生きてますよ。少し外しちゃったんです」
「よく見ろ!」
彼女は、頭蓋骨が歪んで尚それを振り下ろそうとしている。遺体から彼女へ移した視線がかち合って、純粋な瞳に戸惑って一瞬止める隙を逃した俺を、彼女は横目で見て口角を上げた。形容しがたい音が響いて、首が明後日の方向にぶら下がる。
惨たらしさに息が詰まって拳を握り締めた。ドミネーターを構えようか迷った瞬間には彼女が俺へ、握ったままの血まみれの廃材を向けているじゃないか。
「どういうつもりだ」
「ドミネーターじゃなきゃ履歴残んないもん」
「黙れ。お前がしたことは殺人だ」
「ドミネーターで裁いたじゃないですか。更生なんてしませんよ、こんなクズ」
「何故最後までドミネーターで執行しなかった。結果的に犯人が絶命する結果は同じかもしれないが、シビュラが裁くのか、お前が手を下したのかは異なる。お前がしたことは、殺人だ」
「倫理の問題なんて、潜在犯に語られても」
にっこり笑った彼女は楽しそうに、胴体と宙ぶらになった遺体の頭に足を乗せて踏み付ける。滅茶苦茶だ。
俺は堪らなくなって彼女を死体の上から突き飛ばして馬乗りになってやった。抵抗は感じられず、彼女はされるがままでいる。間違いなく俺の力で、この細い指も腕も直ぐに折ってしまえる。なあ、どうして人を殺した。どうしていつも笑ってる。
「いい気になってたんじゃないですか?私とあなたは違うのに。線引きをきちんとするようにって、佐々山さんに言われてたでしょう?」
「聞いていいか。どうしてお前そういう風になった?」
「ほら出来てない」
自分の手の中にある彼女の手首をきっちり掴んでやっているのに、対等に扱われてすらいないだろう感覚は。彼女の言動が常に軽そうに見えるのは。何故なのか。理由が語られることは無い。彼女は何を望んでいるのだろう。
「…社会奉仕をして。改めれば、色相だって好転する」
へらへら笑っている彼女がスッと表情を消して、真黒い瞳で俺を見た。
「はあ?悔やむなら過去の私を助けてあげてくれません?出来もしないでしょう。今日の私みたいにね」
こいつは笑っていないのだ。
背後に聞こえた別の人間の足音に、咄嗟に彼女の手首に込めていた力を緩ませ振り返った。錯乱している被害者が彼女と同じような廃材を手に持ってこちらへ歩みを進めている。背後でドミネーターが組み変わる音が聞こえた気がした。
「今を変えるなら過去を変えなくちゃ」
青い閃光が空間を引き裂く。“もう殺してよ”、小さな声が耳に届く。
死処は彼方