カチカチと時を刻んでいた鳩時計が、正午を告げる。ほら。
 読書をしている彼の口角が上がった。彼はアナログなこの時計が好きらしい。

 私は冷めきった紅茶の最後の一口を、口に含んだ。紅茶が喉を伝っていく。彼が突然訪問してくるのはいつものことで、数十分前の出来事だ。私が焼いたスコーンを平らげるのを黙って見ていたら、最後の一つを唇に押し当てられたのは数分前の出来事だ。別に、物欲しそうな目で見ていたんじゃないのに。ささくれ一つ見当たらない、棘のないような聖護の指が綺麗だと思っていただけだ。
 名残惜しくも私はソーサーをテーブルに置いた。未だ彼のプレートの上には赤がのっているのが見えた。トマトだ。彼が何故かサンドイッチから避けた。食べないのかな。空調管理システムのせいで、些か乾燥してきてしまって可哀相なことになっている。好きなんじゃないか、と思ってたのは勘違いだっただろうか。

 はあ。この時間を思い返して一息つくと、いつもの通り、彼は腰を上げて玄関へと戻って行ってしまう。
 私も追いかけて、何十回目かの別れを告げるのだ。

「じゃあ、また」
「いいや。今日はまだ。これ、君にとは思わなかったのかい?」

 小さな鉢植えだった。「殺した花を贈るのは趣味じゃない、君にはね」と。
 純白の花がひしめき合っていて、中から淡い黄色を帯びた、小さな白い花も何個か飛び出している。ずっと観察していられるような、花だった。
 彼は身軽い動作でそれを持ちリビングへ戻ると、ご丁寧にテーブルマットまで敷いて、それをテーブルの上に置いた。
 私は言っていない筈だから、聖護は知らない筈なのに。彼は何故だか何でも知っている。

「誕生日おめでとう」
「そんな言葉までくれるの」
「地獄へようこそ、とでも言った方が良かったかな」
「…ね、なんて花?」

 否定も肯定も出来ず聞いたら、微笑まれてしまった。相変わらず綺麗な顔の造りをしていて心臓に悪い。
 私はありがとう、とどうにかお礼を言って、また一つ尋ねてみる。これを逃したら、踏み込める機会は二度と来るか。

「聖護は?誕生日、いつなの?」
「種を取って、来年また咲かせてみるといい」

 解いて欲しいようだ。来年までに答えを見つけろと言われてしまった。気紛れにやって来るだけの人が来年の約束を取り付けるなんて。
 花が散っても種を取って、未だ君が隣にいたら、また花は咲くだろう。けれど例え花が咲かなくたって、私の心はきっと枯れることはない。

「花を贈るのに理由はいらないでしょう。聖護がここに来るのも、理由はいらない」
「あんまりが魅力的だからね。少し照れ臭かったんだ」
「そう言うのなら、また直ぐにだって来てよ。一番綺麗なうちに」

 くすくす笑い合うと、手を引かれた。抱擁を一つ。どきどきしながら腕を回し返せば、ぎゅうと抱きしめられて、心音が聞こえやしないかと途端に思考が慌てだす。この変な男にも体温はあったらしい。生きているのだ。

 しばらくすれば優しく体を離されて、またね、と彼はさっさと出て行ってしまった。

 大きく息を吐きながら、思わずへなへなと座り込む。吃驚した。こんなにはっきりと触れ合ったのは初めてだ。この楽園的な社会から融絶されているような私にとって、ぬくもりはひどく痛い。直ぐに散っていくそれに安心感すら覚える程だ。
 シビュラは私が何もしないことを許しているから、私は白いのだろうに。望んでいた筈なのに、望んでいる筈なのに、社会性を持つ本能が私が私であることを否定するような、気味の悪さ。
 今日は、見上げる机上に真っ白な花もあって、まだ聖護が居るような、世界に鮮やかな色を与えるそれに、一人になると失いかける感情が、しばらくは死なないんだろうと更に嫌になる。無くしてしまった方が楽だから、そんなもの。
 それでも彼がくれたものだと思えば苦でなくなってしまうのだから、人間は勝手だ。

 私は何とか立ち上がって彼が座っていた席に座ると、デバイスを起動して花の写真を撮り、検索をかける。『ブーゲンビリア』。

 また咲かせて贈れというくらいなのだから、それなりの理由がある筈だった。真っ赤な色が主流で、『あなたしか見えない』だとか、情熱、だとか。調べて気恥ずかしくなっていく。旧時代の人間は花一つ贈るのに忙しかったらしい。
 こんな気持ちは初めてで、少し期待して色相を見ても、まあ何のことは無い。変わらぬホワイト。この花の色とは違う、無機質なホワイト。まだ心音が聞こえているのに。

 これ以上のヒントは無さそうだから、一旦腰を上げる。吐いた溜息には、諦めの中に嬉しさが混じったような微妙な音が乗っていて、思わず自分で笑ってしまった。
 茶渋になってしまうから、彼が使った食器を片付けよう、としたところで、気が付く。――そうだ、そういえばトマトだけ残してたんだ。手付かずの状態で。今までに一度だってなかったことだ。…何だろう。

 彼は解けもしない問題は出さない。心を読んで欲しいきらいのある彼は、それを楽しんでる。私も人のことを言えたことじゃないので、言わないが。
 思ったより愛されているみたいだ。自分のことを何一つ漏らさない彼が、私が生まれたことを祝福すると同時に、自分もそうされたいと願っている。こんな風に、たまに可愛いところがあるから、どうも離れられなくなるのだ。
 どうしようかな。私は彼が残したトマトを口に放り込み、日々考えることにした。





 翌年。いつもの時間、やっぱり彼はやって来た。7月26日。

 気合を入れてケーキだってホールで焼いてみた。丁度季節の桃を、間に挟みこんである。違ったらお笑い種だけど、彼はそれなりに甘いものを食べるから、きっと気に入ってくれるだろう。
 今年こそ花を眺めて彼と時間を共にするのだ、と意気込んだ思いが通じたのか、ブーゲンビリアは見事に咲き誇ってくれた。

 去年の彼はと言えば、咲き誇っているうちには来てくれなかった癖に、散ったあとにやってきて、種から育てるのは大変らしいよだとか、低木だからねって世話のコツだとか。楽しそうに私を揶揄っていった。要は、このまま育てて咲かせて欲しいらしかった。
 水をやって、肥料をやって、剪定をして。この時期に咲かせるのは本当に大変だった。初めての割にはかなり良くやったんじゃないかと思う。
 だから、私はずっと聞きたいことがあったのだ。出迎えて尋ねる。

「聖護はどこで手に入れたの?」
「少し盗んだんだ。まだ盗み切れていないんだけどね」

 思わず眉間に皺が寄った私を、聖護が変な顔だと笑う。…あとで教えてくれるのだろうが、…少しばかり盗んだのは本当なのかは分からない。
 まあ、とにかく。やっぱり、今日なのだ。

 彼の後ろをついてリビングに戻ると、さすがだ、と彼が感嘆の声を漏らした。私を振り返ってくれた彼に告げる。

「誕生日おめでとう」
「よく分かったね」

 分かるよ。きっと彼が思ってくれてる位は、私も彼のことを思っている。思いばかり募らせて、私に言わせたいんだろう。
 彼がじっと私を見ているのに、何も言葉が出てこない。何て言おうかずっと考えて来たのに、やっぱり何も思い浮かばない。
 見透かすような金色の瞳に恥ずかしくなって目を逸らすと、彼は私の横を通り過ぎてキッチンへ行ってしまった。茶葉をセットして、私が沸かしていたお湯を注いでいるのが見える。私はまた彼の背中を追って行って、隣で冷蔵庫からケーキを取り出した。何度か目をぱちぱちしている聖護と目が合って胸が擽ったくなる。
 聖護には感謝してるよっていうのは、少し違う気がした。狼でしょ、って言って、違うって言われたら傷つく。結局何も口から出てこないまま、リビングへ戻ってケーキを置き、聖護の椅子を引いておいた。
 私は迷いながらケーキを切り分けて席に着く。一年経って存外適当なところが垣間見えるようになった彼は、冷房で冷えた室内に出してあった、ひやりとしたカップに紅茶を注いでくれている。目の前にティーカップが置かれて、聖護が椅子に座った。
 とりあえず、去年の言葉を返そうか。

「聖護といる時は、この地獄が、地獄でなくなるの」
「例え僕が救いようのない厭世家で、君を殺す狼だったとしても?」

 嬉しくてどうにかなってしまいそうだ。私は自分のケーキにフォークを入れて、一口、彼の口元へ差し出した。彼が口を開けたから、フォークを滑り込ませる。

「殺されたって、もう枯れてあげられない。連れて行って。今日を最後にしようよ」

 咀嚼した彼の口角が上がっていく。あなたの地獄へ連れて行って。例え真っ赤に染まろうが、私は聖護と一緒に居たいの。

7月26日