都内に一人暮らしの、狡噛先輩の部屋、アパート、の、ワンルーム。淹れて下さった珈琲を頂戴しながら、私は最高にどきどきしている。先輩はよく分からない挙動で私に珈琲を淹れて下さってから、『文献持ってくる5分くれ。どこやったっけか…』とぼやきながら、別の部屋へ行ってしまっていた。5分は疾うに過ぎている。私は全てを察している。狡噛先輩の部屋は割と散らかり気味だからである。
友人以上、恋人未満。多分。これを機に友人という関係を打ち破って見せる。意気込みはよし。いやぁ、恋人でないのに異性の部屋に入るのも上げるのもどうなんだ? 仕方ないだろう、課題が終わらなかったんだもん、狡噛先輩はとても面倒見が良いんだもん。もし本当にそれだけなら悲しいしちょっとくらい気を持ってしまってはいるけど仕方ない狡噛先輩は格好良すぎる。とにかく私は彼のご厚意に甘えさせて頂きたかったのである。とはいえ、珈琲の味は緊張でよく分からない。
そう、珈琲。私は言った、彼はよく分からない言動で珈琲を淹れてくれたと。そう、私の最初の好奇心はその彼の言動によって、もたらされてしまっていたのであった。だって彼が、私が台所に行くような言動を先んじて全てブロックするようなよく分からない言動をしたんだから仕方がない。これは仕方がないのである。きっと台所には私が見てはいけない何かが置かれているに違いない。きっとそれは彼の真理である。腐っても心理学科だ、仕方ない。この好奇心は止められない。拝啓、心理学科の狡噛先輩へ。先輩のおかげできちんと賢くなってしまったのかもしれません、最近、先輩の挙動が少し分かるようになってきてしまいました。
珈琲を飲み終わった私は息を吐き、腰を上げた。仕方ないだろう。5分以上10分以上20分未満戻ってこない狡噛先輩のせいにしてやる。暇を持て余した好奇心の遊び。私は足を踏み出した。
人様のお宅のキッチンを漁るなんて無礼だろうか-間違いなく無礼だろう。しかし好奇心が勝ってしまった。勝ってしまったのだ。それに、許されなくはない、距離感である、と思う。ちょっとだけ、ちょっとだけ。
とにかく。開けた棚、だしの素。開けた冷蔵庫、ほぼ空、でも卵となると。冷凍庫、白い。うどん。うどん?うどん。全部うどん。あっ隅の方に、これは、これは、冷凍きざみねぎ。
「これは一体……???」
どういうことだってばよ。
思わず足を引いた、何か当たった、振り向いて、足元に置かれていた、開けられている段ボールは、…ひたすらにレトルトカレーが詰められている。
しゃがんでそーっと、その何箱かを持ち上げてみても、あ、ああ。上から下まで。レ、レトルトカレーオンリー。どうして。誰から。なぜ。なんのために。
好奇心に従うまま、箱の開き部分をひっくり返してみると、狡噛とも代。…お母様? …カレー? カレーの母。…命の母?
「」
「っひ!」
いつの間にか戻って来ていたらしい。直ぐそこにいらしていた彼の長い長い足を伝って先輩を見上げて、……。これはまずい。彼もしゃがんできて、私は頭の横に彼に肘を突かれ、逃げ場まで完全に失った。顔が近い。近すぎる。お尻を地面につけて膝を丸めて縮こまる他ない。だってこわいのだ。先輩がこわいかおをしている。
「うぁ、えっ、あ、あ…」
「………見たな」
何を、見た、見た、カレー、カレーうどん。うどんカレー。カレーうどんになりそうなものを、見た。もしかして先輩は365日3食カレーうどんを食べているのかもしれない現実を見た。お年頃の男性の気になるベッドの下はまだ見ていない。
「…あっ。もしかしてベッドの下にもレトルトカレーがあったり……?」
「…しない」
「カレーとうどんは見られてまずいものじゃないでしょう、なん、なんで、なんでそんな怖い顔」
「別に毎日カレーうどん食べてるわけじゃない。母さんがカレー買って寄越してくるんだ、食いきるためにうどん買うだろ」
「言ってない言ってない」
「お前もカレーうどんを否定するのか」
「してないです」
脊髄反射で応答してみるも、顔を下げることも許されない。目線を彷徨わせたところで、見えるのは、彼の襟元、外されたボタン、のぞいている鎖骨、うわあと思って目線を上げれば立派な喉仏、灰色の瞳に捕まえられてもう瞬き一つ出来ない。心臓はずっとばくばく言ってる。口からは意味不明なことを言い合っている気はしている。
「せんぱいあのちかいです、かだい、あの、かだいを、かだい」
「課題はやる。でもまだやらない。悪い子は終電なくなるまで帰してやらない」
「じゃあ、じゃあ、先に夕飯、夕ご飯食べましょう、カレーうどんですよね、いいです、私もカレーうどんそれなりにすきです」
「知ってる。それは同意をもらった、ってことでいいのか」
「ちょっ距離詰めてこないでくださ、カレーうどんは同意ですって」
「カレーうどんから離れろ」
「先輩が離れて!」
「やだ」
「っごめんなさいってばあ!」
半泣きで喚くも、くっついてきた先輩が更に体重をかけてきて、そのままべったり密着して頭がいよいよパニックになる。いい匂いするあったかい重い硬いとても硬いでも肉の感触が。やだ狡噛先輩いきてる。先輩は私の首元に顔を埋めて頭をぐりぐり押し付けた。
「先輩、あの、ねえ、ちょっと」
ちょっとぉ、上擦ったような声になってしまった。ずるずると、私が極限まで丸め込んでいた膝は、彼の肢体の重さに耐えきれず伸び始めていて、私の上体もずりずり壁から落ちてきている。彼は構わず体重をかけ続けてくる。ご丁寧にも私の後頭部は彼の手のひらに包まれているが。顔が熱すぎてどうにもならない。どうしてこんなことに。
「あたま凝固して課題できなくなっちゃう…。カレーうどんには半熟の方がおいしくないですか……?」
そのまま横に流され床に転がった。優しく頭を床に降ろされ、上体を少し上げた狡噛先輩から逃れるように、私は横を向いて顔を覆った。だって多分、完全に押し倒されている図だろう。どうしてこんなことに。全く身動きが取れない。はなしてほしい。自由にしてほしい。ほんとはぎゅって抱き締めて欲しい。もっとくっついてたかった。いや、あのままじゃ確実に心臓が止まっただろう。熱で頭がやられる方が早かった気がする。心臓は未だに忙しすぎて過労死しちゃいそうなんだから何か喋ってくださいよ。
「……なんか言ってくださいよ…」
「…言っていいのか」
「先輩が質問返しする時は楽しんでる時か困ってるときだって私もう知ってますからね。なんですか、うら若き女性を押し倒しておいて告白の一つもないんですか。この意気地なし。ふがいなし。女たらし」
「あんまりこういうのは得意じゃないんだ。悪かったな。半熟には同意する」
顔を覆っていた腕を強引に剥がされ、ちらりと見やった視線が交わり引き合った。心臓はずっと、どきどきが止まってくれなくて、視界いっぱいに狡噛先輩しか見えなくて、胸がいっぱいで苦しい。彼の無理矢理押し固めているような仏頂面の口が半開きになって、閉じた。…そこは絶対言うところでしょ。ハイスペックの癖に慣れてないなんてどういうことなんですか世界の法則が壊れる。
むかっときて、彼の頬を両手で包んで、口を結んで彼を見つめる。だって言って欲しいのだ。私の想いに気付いてないなんて、今更言わせてあげない。無かったことにもしてあげない。夕食だってお夜食だって朝食だって、先輩と一緒なら毎日カレーうどんだっていい。もし、好きだ、の言葉が聞けたら。
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