「バカ。狡噛さんのバカ。来世ワカサギに生まれても天ぷらにしてあげませんから」
「泣ーくーな。お前に泣かれると落ち着かない。このくらい大したことない」
勘弁してくれ悪かったよ、と言う彼は多分全く反省していない。お前パニックになると意味分からんこと言い出すんだな、と軽く笑ってる彼は絶対全く反省していない。
担架に乗せられた狡噛さんは大人しく寝そべって、巻かれている包帯には血が滲んでいる。彼は次から次へと溢れてくる私の涙を拭うのに忙しい。怪我をするのは執行官の役目なのに。込み上げてくる涙は止まっちゃくれないし、冷えてきた空気でさえ心を凍らしてくれなかった。濁ってるくせに、と心の奥で誰かが囁く。
救急車の中はガンガンに暖房がかけられていて死ぬほど暖かい。死ぬかと思ったのだ。この人が怪我なんてするのなら、自分が死ぬ方がよっぽどマシだった。
「ぐす、寒い冬には、熱燗のんで、お鍋かこって、みかんの汁ぶしゃってしてやる。傷口にみかんの汁ぶしゃってしてやる」
「やめてくれ」
「二度と私を庇うなんてしないでください」
優しく私の涙を拭っていた、彼の手を引き剥がした。指を絡められた。困っていたら、狡噛さんが反対の手で私のネクタイを引き寄せた。私の涙が彼の頬に落ちる。彼の頬は、温度差にやられているのか、怪我の影響なのか、赤く染まっている。
彼は穴が開いてしまうってくらいに私の目をじっと見ていて、私もその綺麗な光彩の奥底まで覗いている。どんな時だってあなたは泣かない。灰色の瞳のその奥に、何を映しているんだろう。ぼたぼた涙が落ちて行く。何を考えているんだろう。探るように見つめていると、視界の隅にはっきりとした赤色が動いた。彼が舌なめずりをして、彼の頬を伝っていた、私の涙を舐めたのだ。私は思わず下唇を噛んだ。
「狡噛さんなんてきらい」
苦しいのに構わず身を引いてやる。息が詰まって、強く繋いでいた手を引っ張られた。ギリギリで担架に肘をつく。嫌な痛みが響いてくる。更には荒々しく頬を掴まれて、「冗談でもそんなこと言ってくれるな」怖い顔した彼に至近距離で睨み付けられた。怒らせた。恐ろしさにぎゅっと目を瞑って顎を引くと、彼の息が感じられた。それから唇にやわらかいものがぶつかって、反射的に目を開けた。私の唇を食んでいる彼に噛み付こうとしても、敵うわけはない。やめて、と開こうとした口に舌が差し込まれ、顔が熱くなって身体の力が抜けていく。舌に吸い付かれて、苦しいまま息も継げやしない。交わす息が熱くて頭がくらくらし始める。引き剥がそうにも叶わない。彼の冷たい指が私の首を撫でてきて、ぞくぞくと背筋が震える。ひどく情熱的で、優しいキスに、何も考えることなんてできない。舌の裏まで舐め上げられてから、やっと唇が離された。コツンとおでこを当てがったまま、朦朧と肩で息をする。彼が私の首元を探って、しゅるしゅるとネクタイを緩めてくれる音を聞いていた。シャツのボタンまであけてくれたのか、呼吸が楽になる。彼は私が吐き出した息を無遠慮に吸い込んで、不貞腐れたように口を開いた。
「好きな女を庇ったら嫌いだって言われたからヤケになってキスした。と、いいって言ってんのに上司に個人的な口答えしてくる部下に個人的な罰を与えた。どっちがいい」
わかんない、消え入りそうな私の声がその場に落ちた。好きなんだ、と彼の声が続いていった。
優しい声で名前を呼ばれて、止まっていた涙がじわりと溢れて来る。伸びてきた彼の手を取って、自分の手を重ねて、頬を摺り寄せた。目を閉じて、少し硬い手のひらに甘える。見た目が違ったなら、種族が違ったなら、こんな思いをしなくて済んだだろうか。ゴマフアザラシとゼニガタアザラシとか、植物の交配交雑とか、どうにもならない知識ばっかり浮かんでは消えていく。最後に残るのは、いつもこの人のことを考えると、胸がしめつけられるという思いだけなのに。全て仕方がないことだ、と知っている。
「私は潜在犯です。同胞を裁いて、あなたを守るために居るんです。その理由さえ取ってしまわないで」
「強情だな。それなら、一緒に死ぬか」
俯いて吐き出した心に返された、彼の心に、目を見張った。バカなんじゃないの、と怒りに飲み込まれそうになりながら、彼を睨みつける。
「お前となら構わない」
彼は穏やかに微笑んでいた。目を逸らすことは許されない。喉を撫でられて、言葉が出なくなる。この人は、私と同じ形をしているのかもしれない。そうでも、一緒になんてなってやるもんか。悔しくて、彼の傷口に爪を立てた。
氷上