「教育実習で来ました、狡噛です。教科は社会だ。今日から3週間、世話になります。よろしく」

 ぱちぱちぱち、拍手が遠くに聞こえる。立ち上がりそうになる足を必死に抑える高等学校第1学年の初夏。私はこの人に恋をするためにこの学校に入ったのだと思った。きっと。多分。ありがとうお父さんお母さん、第一志望に落ちた私。



「あの、狡噛先生。これについてお聞きしたいです」

 ついに、ついに、声をかけることが出来た。初日、彼を追いかけるも、他の女子軍団に負けたのだ。要は生存競争に負けた。普段から負けているので仕方ないと諦めた。でも諦められなかった、諦めると言う選択肢はなかった。ので、皆が飽きた又はガチ恋に切り替わった一週間後、初日からガチ恋の私のターンがやっっっときた。狡噛先生がヒロインならヒーローである私は遅れて登場したに過ぎない。ここまで刹那の思考。先生がこちらを振り向いた。
 イケメン。最高。すき。

」先生が確かめるように名前を呼んでくれた。合ってます。
「はい。です」
「ああ、、おはよう。どこだ?」
「このページの、」テキストを開くと、先生の指が置かれた。指輪、なし。「ここです」あ、指差しちゃった。
「…先生の指だな」
「指の円周について。私の薬指は9号です。先生の指の場合はどうなりますか?」誤魔化した。
「…数学の先生に聞くことを勧めるが」

 ご尤も。あーとかうーとか言いそうになるのを必死に抑え、先生の顔を見る。微妙な表情をしている。カッコいい。
「社会についての質問は?」
 ついでにこの先生は、落としたぞ、とわざとあの子が落としたハンカチを拾って届けちゃうし、優しいし、チョロそうに見えて、わざとだろってニヒルに笑っちゃうし、先生をからかうなって言っちゃうし、バレてるし、ガチ恋が加速する。ついでに狡噛先生は4年生らしいから、そんなの、そんなのただの先輩。年の差なんてほとんどない。ガチ恋にしかならない。そんな一週間だった。
 脳内心情暴走させながら、平常の表情を保つ努力を最大限に先生を見詰めている。カッコいい。

「…先生の顔になんかついてるか?」
「いいえ?」
「質問がないならもう行くぞ。先生は忙しい。社会、満点だろう、
「英語も満点です」
「国語もな。が世話になるべきは、数学と理科の先生だ。頑張れよ」

 はっと口を押さえそうになる手を、踊り出したくなる気持ちを必死で抑える。私の成績まで覚えてくれている。お母さん今日はお赤飯にして。
 しかしながら、これは。教える必要が無い子、認定をされている気がする。先生は平等であるべきです。私が社会満点だからって、先生が教えることを止めていい訳がない。何とかして質問を捻り出そう。これからは、普段ググっていることを全部、教えて狡噛先生、って言おう。そうしよう。軽く手を振って行ってしまった先生の背中を見送った。後ろ姿もカッコいい。



「狡噛先生、こんにちは。シビュラが我々人類日本社会にもたらした恩寵ってなんですか?」
「…こんにちは。成しうる者が為すべきを為す。小学校で習ったろ」
「ならシビュラってなんですか?」
「包括的生涯福祉支援システム。…中学で習ったろ。、先生も忙しいんだが」

 お母さん、今日はお赤飯にして。名前をスムーズに覚えてくれている。次の質問が思い浮かばないので、口を閉じて先生の顔を見る。カッコいいなぁ、優しいし、教え方もうまいし、そういえば狡噛先生は運動だってできるのだ。
 昨日、体育館に出没しているってウワサを聞いて、瞬間移動レベルで駆けつけてみたら、剣道してた。全員打ち負かして、最後に一人だけ立ってた。きゃー!という女子の黄色い悲鳴に混ざりたくて混ざりたくてうずうずしながら、私のキャラが崩れるので混ざるわけにはいかなかった。あんなのに混ざったら私の社会的地位が、スクールカーストが更に下回る。それはヤバいことになる。私はブレインから落ちるわけにはいかない。しかしながら何が言いたいかというとブレインの癖に3週間で男性を落とすハウトゥーは分からない。習ってない。それをどうにか社会学と紐づけて教えて狡噛先生と言ったら教えてもらえないだろうか。手取り足取り。きゃー。
「もういいか?」
 狡噛先生はどういう生徒が気になるんだろう。いや、女性。女、女性……?年下の女性…?私、女性…? やめよう。まずは狡噛先生のことを考えよう。分析しよう。狡噛先生。
「…、表情変えないで考え込むタイプだろ。先生分かって来たぞ」
 そう、狡噛先生。狡噛先生も、真面目だ。もういいか?に答えずに、ずっと先生を見ている私の扱いに困っているのか、その場を動かずに私の様子を見てくれている、くらい、真面目だ。ずる賢いやり方はおそらく好まれない。名前も顔も性格も狡いくせに、狡噛先生はひたすらにひたむきに真面目なように見える。どう、どうアプローチをすればいい?
 私は悩んでいる。結局ナチュラルに話しかける回数を増やすとか検索すれば分かることを聞くとかそんなことしか出来ていない。鬱陶しがられていそう、それもそれで怖い。でもチャンスはあと2週間しかない。2週間を切っている。1週間で男性を射止める方法。分からない。習ってない。習ってない!それを社会と紐づけて狡噛先生に質問しよう。これは勉学だ!まずは生徒という立場を最大限に利用するべきである。

「狡噛先生。社会学的に、1週間で特定の個人に自分を好きになってもらう方法を教えてください」
「……えらい難しい質問だな…」

 珍しく沈思した先生が捻り出してくれた答えは、『相手の好みを正確に把握し相手が何を求めているのかを察し相手にとって都合の良いポジションをキープする、かつ自分らしくいて自分自身を好きになってもらおうと何らかの努力を行えば、いつか報われるかもしれない』。
 先生、それって要らない質問をせずに付き纏わずに話しかけずに成績をキープしろって言ってますか?立ち尽くしたまま先生の背中を見送った。

***

 変な生徒がいる。社会、満点。国語、満点。英語、満点。
 気になって残念な教科の時間を覗き見したら、数学は寝てた。理科、あれは絶対聞いていない。

 彼女が黙って人の目を見ている時は、話を聞いているようで、…聞いているっちゃいるんだが、あれはおそらくひたすらに考え事をしているのだと思う。
 バカ正直でバカ真面目というのか、遠回しなようで直接的な彼女の気持ちはかなり明け透けだ。本人もまあ隠すつもりはないのかもしれないが。
 彼女がまともに俺の話を聞いているのは授業中だけだと思う。顔つきが全然違うし、机間巡視の際にも、別に俺の顔を見ることもない。
 それにしても、走り書きメモのようなあの残念なノートが、どうやったらあの成績になるのか。…まあ翌日には、模範にさせてくれと言わざるを得ない程に綺麗にまとめられたデータが上がっているのだから、恐ろしいものである。あいつあれ社国英関連科目全部やってるんだろ。48時間が1日なのか?よく死なないな。正直言って内心引き気味ではある。俺がやるかと言ったら間違いなくやらない。適当にノート取って適当に思い返して適当に点数とってそれで終わり。だから、彼女のノートはかなり参考になる。自身の勉学のためにも。
 はやる気があるのか無いのか、突き抜けた文系、という地位・成績を築き上げている。ああいうのは地頭がいいって言うんだ。絶対に数学と理科もその気になれば出来るに違いない。何故やらないのか。個人的な質問は社会学に関連付ければ質問返しをしてもよいだろうか。

 毎日毎日、実習記録をつける度、を主体に一日を思い返していることに気が付いて、日に日に残念な気分になってくる。成績トップと言えば、それまでだが。相手は学生だぞ。
 …といっても、話は至って簡単だから困るのだ。要は学外で会うことができれば。…なんて思い始めている自分に、何だかな、と思いつつ。
 明日はアイツは何と言ってくれるだろうか。雛鳥にしちゃしっかりしてるが、後ろを必死に追いかけてくる様が可愛らしく感じるなんて、俺教師向いてないな。

***

 あゝ無常。最終日。今日は未だ質問を捻り出せないまま、昼に至る。
 だって、そんなやり取りを毎日続けてきたけど、何も変わらない。先生は私のことをと呼んで、自分のことは先生と言う。当たり前だ。分かってる。それでも、少しでも、狡噛先生の先生の部分をどうにかしたい。したかったのだ。けれど、そのために必要な、私の女子力が著しく不足しているため、どうにもならなかった。しかしながら、先生が同級生の男子よろしく鼻の下を伸ばしているところも見たことが無かった。学内ミスコン1位の人の前だって。ちなみに先生はミスターコン1位よりカッコいい。カッコいい、カッコいい、Handsome。今日のサンドイッチはハムをサンドしてある。サンハム。ウィズエッグ。ハンドで持って食べてる。質問を捻り出せなくてもお腹は空く、胸は込み上げるばかりであまり食べ物を受け付けたくはないようだ。でも食べる。もぐもぐ。

 はあ。どうしたら、どうすれば。思えど時は残酷だ。私が3週間まともにいつも通り取り組み続けている科目の成績は正しく評価反映されているのに、人の心は分からない。国語の文章問題も、登場人物の心情だって答えが分かるのに。人の心は分からない。国語も社会も英語も向いていない気がしてきた。自身のアイデンティティを喪失しそうだ。明日になったら全部忘れる。そうだ、忘れよう。忘れられるのなら。いやいや、それこそ時が癒してくれるんじゃないだろうか。

 手に持っていたサンドイッチが私の胃に消えたように、形あるものはいつか無くなる。でも、サンドイッチが入っていた袋が残っているように、消えないものもある。思い出の一つでも胸に、いつか懐古できたらいい。傷を抉ると同義かもしれない。ありがとうサンドイッチ、おいしかったよ。ごみはごみ箱に捨てた。



。あとで準備室に来てくれるか。先生、成績上位者に授業の感想を書いてもらわないとならないんだ」

 悪寒がする。女子の目線という名の悪寒。成績上位者、と理由を付けてくれた狡噛先生は円満な学級運営のコツを掴んでいる。

 質問を捻り出せなかった即ち会話質問問い合わせが出来なかった本日最終日の最終時限オーバー後。私は超業務連絡を申し付けられた。まだ今日は終わっていなかったらしい。とても嬉しくて悲しい、両極端な気持ちで準備室をノックする。
 だって明日になったら狡噛先生はもう居ない。会えない。連絡先も先生の学校も彼女の有無も知らない。先生の名札でフルネームを知ってるだけ。
「失礼します」
 学科主任の姿はない。要は、準備室には狡噛先生と私だけ。複雑な心境だ。私は今日で全てを諦めなくちゃならない。成績優秀だった私を褒めてもいいだろう、最後のご褒美だと思って。

「これ入力してくれるか。学校に提出しなきゃならないんだ」
「ご褒美シールでもくれませんか?」
「ハンコならあとでやる」
「サインがいいです」
「はいはい」

 嬉しいな、形に残る、物理的なものがもらえるらしい。先生が私に差し出したタブレットを受け取って、何やら求められていることを入力していく。狡噛先生の視線を感じて身体が固まってしまいそうだ。動揺する必要はない。大丈夫、身繕いは猫並みにしたはずだ。

「…これは少し個人的な質問なんだが。ホントのところ、出来る奴から見て、俺の授業、どうだった。まあ聞ける程度だったか?」
「とても分かりやすかったです。現に、平均点は上がっている筈です。先生に数学も教わりたかったです」
「残念ながら、先生はもう知ってる。は数学の授業寝てる」
「狡噛先生の授業なら起きます」
「嘘つけ。俺が居ても居なくても、成績変わらないだろ、お前」
「そんなことないです。社会だって身が入りました。そういうのは、狡噛先生に数学を習って、成績が上がらなかったら言って欲しいセリフです」
「そうか」

 心臓が止まるかと思った。先生が、俺、って言うの、初めて聞いた。更には、お前、って呆れたように言われて、心臓が口から出るかと思った。…不慣れすぎる自覚はある。でもしょうがないと思うのだ。好きな人相手なら、経験なんか関係ないだろう。好きなんだからしょうがない。相手が何をしたって、しなくたって緊張するものだ。まあ、例え好きじゃなくたって、狡噛先生が格好いいことに変わりはないけれど。この世の全てが恋敵に思えるくらい。
 でも、そんな先生を、今、私だけが独占している。個室、二人きり、業務上。それでもいい。入力を終えたくない。自身のタイピング速度と溢れんばかりの国語的語彙力が恨めしい。手元の感想欄を全て埋め尽くしてしまった。

「終わりました」
「ん。ありがとう」

 先生はいつもズルい。優しい声で相槌を打つのも、挨拶してくれるのも、お礼を言ってくれるのも。私の手からタブレットを受け取って眺めるその仕草も、伏せられて左右に動いている灰色の瞳、真っ黒な髪、ふっと表情を緩めて、キリリとした眉が目許と綻ぶと、私の息の根はいとも簡単に絶える。絶えた。

「…はあ。先生、3週間ありがとうございました」
「珍しいな、ため息なんか吐いて」
「学生生活、満点取れそうにないので。叶わない恋の諦め方が分かりません」
「諦めろなんて教えたか?」

 髪を掬われて、はっと先生を見る。…ニヒルに笑ってる。え、やっぱりバレてる。どういう意味? 先生が私の手に紙切れを握らせた。
「叶うまで追いかけてみればいいさ」
 先生は内緒話するみたいに囁いて、秘密だぞ、って見たことのない顔をした。

教えて先生