「お疲れ様。ねえ、慎也くんって呼んでもいい?」
仮眠を取ろうと分析室に入ると、くるりと椅子ごと振り返った彼女が唐突に切り出した。彼女は先月入局したばかりのクリアカラーの人間だ、というのも何でも屋のように仕事をこなしていて、いまいち本職が何なのか的を得ない。だが医師免許を持つ人間の間では相当な有名人のようで、あの唐之杜が緊張した様子だったのを見て、この人がどれだけの人間というのかを皆悟ったもんだった。
「聞いてる?実は私、少しだけ年上なの」艶やかな髪が揺れている。赤い舌の先端を一瞬だけ見せてから、「だめ?」
絶妙な距離を取りながら、しかし確実に詰めてくるこの女は、男の本能の扱い方をよく心得ている。佐々山が生きていたらこの女が存在していること、ただそれだけに歓喜し涙したんじゃないか。
「いいや」構わないと首を振れば、やや上目に俺を見ていた、長い睫毛に彩られた幼さを残す大きな目許が、嬉しそうに緩んだ。容易く折ってしまえるだろう首、豊満な胸、細いウエストに引き締まった腰、パンツの上からでも分かる綺麗な形の長い脚と、桜貝のような爪を携えた白魚の手。女の色香と少女の幼さを共存させたようなそれは、彼女は、生きているだけで男の欲望をひどく掻き立てる。
「――それにしても、よく入局できたもんだ」いくら医師免許を持っているとはいえ、その歳で入局が認められるとは。相当おかしな話であることは確かで、いくらかの疑念を持って本人に尋ねる。
「うん?」
ああ、と意味を理解した彼女から、ファイルを受信した。送られてきた彼女のプロフィールをチェックすれば、最終考査当時の一位、この点数は見たことがある――さすがに目を見張って彼女の顔を見れば、可愛らしくにんまりとしたその口が全てを知っていると物語っていた。だからか。彼女こそ、俺が更新する前の歴代一位を保持していた人間のようだ。――履歴に視線を戻せば、医師免許自体も在学中に飛び級的に取得、卒業しているし、他にもいっそ恐ろしいほどの資格の量、薬剤師にセラピストに国家法曹士に……、俺と同じく古語や速読検定の文字もある。
納得はしたが、理解しようとするのは止めた。
実際、彼女が入局してからというもの、今まででは考えられないほど早期に全ての事件のカタがついている。その能力に疑う余地は残されていない。この女ならば、闇に葬り去られた重要指定事件の謎ですら全て解けてしまえるのではないかと思うほどに。あの時この人が居てくれたら――
――ぽん、と手を打った彼女が、「そういえば、慎也くんも古語検定持ってるよね。私、色々珍しい本持ってるよ、今度勉強しに来ない?」
…そこまで顔に出ているとは思わないし、事実そうだろうと思うんだが。彼女といると、自分のことを情けなく思う時が多い。知らないことだらけで右往左往してばかりだった、監視官の頃に戻ったような気さえしてくる。当時の俺達の最終考査の詳細な結果から、{シビュラへの信心}なるものを排除したとすれば、そこには彼女だけが残っただろう。今、彼女だけがここに立っていることが答えだ。――いや、これ以上シビュラの枠で考えるのは止そう、シビュラで測れるものでもない。
一体彼女は何を考えてる――目を合わせても、意図をまるで読むことができない。けれども、うまくいけば何かを知り得ることができるのではと、それに頷いた。




重なっていた週末の休みに彼女の部屋へ邪魔し、書斎となっている一部屋に通されると、そこには膨大な数のそれや希少な横文字ままの古文書などもあり、純粋に心が躍った。
「好きにしていいよ」おかしそうな声色が俺の耳を通って、本当に、と聞こえたのを最後に、扉が閉まる音がした。



ギィ、と再度その音を耳が拾って集中の糸が切れる。ここでふと、何故俺は本を借りずここに座り込んでまで読み耽っていたのか、急な疑問に襲われた。今しがた読み終えたユングの一説、要は『あなたが無意識を意識しない限り、それはあなたの人生を支配する』が思い出された。「大丈夫?そろそろ少し休憩した方がいいかなと思って、」二つ持っているマグカップの片方を俺に差し出し、若干屈んで俺を覗きこむ彼女が恐ろしく扇情的に映って息が詰まった。

「慎也くん?」

――その声に引き戻され、悪い、とそれを受け取り、微笑む彼女を横目に口を付ける。
それから届きそうで届かない絶妙な位置に座り込んだ彼女は、あまり熱くないそれに息を吹きかけて冷ましている。その呼吸音が嫌に脳髄に響く。
この女の色香は唐之杜などとは違う毛色をしていて、鎖骨と、ほんの僅かに肩が見えているその大きめの白いニットがよく似合うものだ。ショートパンツからはピンクの白いふとももが投げ出されている。男の庇護欲を誘うようなタイプのそれだ、全て分かってやっているんだろうと思いはするが確信は得られていない。それに、どうであれ結果としてタチの悪いところは同じだ。

「…もっとこっちに来て?」
マグカップを脇に置いて、掠れた声で女が誘った。
彼女のことを正常だと思ったことは一度も無い。だからといってあまりにも恐怖が無さすぎるのではないか。色相が濁ることにも、男を誘っていることにも。だがこれは約束された応酬だ、俺が無意識下でこの場所に居ることを選んでいた時点で――
だから今更だといえど動けずにいれば、見透かした彼女が膝立ちで距離を詰めはじめる。そこには男には存在しえない柔らかそうな谷間が見え隠れしている。
俺の足に手をついて、反対の手を伸ばして顔に指を這わせ、小さな声で「しんやくん」と薄く笑んだその歪みは完璧で、魅入られ噛み付こうと本能が誘われれば首を傾げて躱された。とん、とその頭が俺の肩口につき、ふわりと香った甘い匂いに喉が鳴った。理性まで一緒に飲み干して、全て忘れてしまいそうだ。猫のように頭をこすりつける彼女は一体何を狙っている、どうして俺を――疑問は尽きることを知らない。それを何一つ一人で暴くことも出来ない。だがどうしたって彼女はそれを助けてくれはしないだろう。心臓のあたりが苦しさや悔しさで歪むようだ。
背中に細い腕をしっかりと回して、完全に俺に身体を委ねた彼女とぴったりと密着して、その柔らかい重さを捉えきった瞬間床に縫い付ける。

「好きだよ、慎也くん」
君の負けだよ、狡噛くん
悪魔のように囁くその唇に今度こそ噛み付いて、喰らった。

My sweet evil