吐き出された缶のプルタブを開けた。ソファに腰を下ろして、隣は空いたままだ。
『一緒に居すぎたね』
俺の方を見ないままに、ふ、と笑った彼女の顔は相変わらず綺麗だった。その顔が凄く好きだった。今でも好きだ。彼女が任期を終えて幹部に上がるとき、言われた別れの言葉。彼女の自宅じゃ勿論なくて、俺の、宿舎という名の檻の中でもなくて。引き留める術なんか無かった。引き留めることなぞ出来なかった。あれからどれだけ経っただろう。コーヒーを口に含んでも、彼女が好きだったこの味も、変わっていない筈なのに、何の味も感じない。目を閉じて顔を上げる。何も無い、苦ささえ分からない。ただ手のひらの中の冷たさだけがはっきりとしている。まだ暖かい方なんじゃないか。それほどの静けさ、空白。バカ言え、まだ一年だ。たったの。刹那、けたたましい音が鳴り響く。段々と、足音が複数、駆けてくる。
「狡噛さん、出動です!」
「ああ」
ゆっくりと目を開けて、中身の残っている缶をそのまま捨てた。何一つ俺を待っちゃくれない。こんな風に捨てられたらよかった。俺一人、彼女との思い出すら何一つ捨てられず、何もかも置き去りだ。「…狡噛、何を考えている」「何の話だ」「ならいい」ギノも察しがよくて、彼女もそうだった。彼女と時ばかりが先を行ってしまって、――今はどこのどいつと共に居るんだろうか。確かに彼女の心はここにあったのに。俺のせいだろう。彼女の右手には知らない指輪が光っていた。潜在犯に堕ちても、共に居てくれたのに。未練がましい、せめて彼女の幸せを願ってやれないだろうか。思いながら今日も護送車に詰め込まれ、暗闇の中から這い上がれもしない。
*
地下、ほとんど目の利かない暗闇の中、犬が犬を狩っている。首輪が付いているだけで、本質は変わりのないものだろう。音を頼りに追いかけて、自らの呼吸音が上がっていくのを聞いている。どれだけ口角が上がっても、今だけは、何も俺を裁かない。潜在犯の足音が止まった。ゆっくりと距離を詰めていく。靴音がトンネル内に反射している。思ったよりも手応えの無い相手だった。全てを忘れられるような、己の命を削るような、俺は確かに生きているのだと分からせて欲しかった。退屈だ。事件なぞ起きない方がいいのに、俺を止まらせないで欲しい。自責の念で潰れてしまいそうなんだ。刑事とは一体なんだっただろう。常守が思い出させてくれたことも、本能の前に無くしてしまう。呼吸音は女のものだ。俺は正義を盾に人を殺したい人間だったか。冗談だよ。犯罪者は皆死んでしまえばいい。潜在犯も犯罪者だろう、そうなんだろう。
「ご愁傷様」
「――慎也くん?」
これは罰か、何だろうか。サイレンの音が近づいてくる。それらは己に向けられているもので、そこから逃げて逃げ続けて、やっと息の出来る場所が、彼女の胸だったというのに。今は全てが彼女に向けられている。ドミネーターが変形していく。
「嬉しい」
どうして、とか、何があった、とか、何も言葉が出てこなかった。ただ、この銃が殺せと言っている、それだけだ。今だけは耳を塞ぎたかった。『愛してるよ』銃を下ろすことすら出来ないでいる俺の指を、彼女が引いた。
Silent