今日はやけに冷え込む。コートを着込んでも、冷たいこの温度は沁みるものだ。
「――っうわ!」
無事佐々山と公安に戻り、暖かな室内にほっとしながら、入用で俺だけ他係を訪ねたのだ。それから廊下を歩きしばらく、背中にいつもの重みと衝撃。じわりと伝わってくる温かさ、をくらう。
「、せめて声かけてからにしてくれ。驚く」
執行官歴が長いだけあって、さすがというべきか、彼女はいつも足音一つ立てなかった。腹には、ぐっと腕が回されていて、俺はそれを確認することもなければ振り返ることも無く、ただ前へ足を進める。そこでやっと、彼女の靴先が床にすれる音がする。
「監視官~~…」
「名前でいいと言ってるだろ」
「嫌です!」
理由は分からなかった。俺の背に顔を押し付けている彼女が、くぐもった声で元気よく返事をする。こいつをひきずったまま一係へ戻るのがルーチンと化していた。しかし、いつも一係まで耐え抜く彼女の腕が、ずるずる下がってきているのを感じ。メシはちゃんと食ったのか、元気が出てないぞ、どうした。軽い気持ちで聞いた。
「体調不良か?」
「そんなところです」
適当な返答をされた。ついに腕が解けて振り向けば、彼女は地に足をつけ、後ろ手を組んでへらへら笑っていて、その腕には包帯が巻かれているのが見えた。
「…その腕、どうした」
「何でも無いですよ」
いやに開いた瞳孔で、笑った彼女が踵を返した。明日は雪でも降るかな、と思った。
「ー?」
呼んできて欲しいと頼まれ、まあ断る理由も無かったから、彼女には悪いが応答も無かったし、と監視官権限で部屋に踏み入ったのだ。しかしありとあらゆる部屋を探しても彼女は見当たらず、明らかに、風呂場の照明がついていた。さすがに開けるわけにいかず、言葉をかけ続けても、シャワーの音はしていないのに、全く返答がされなかった。少し待って、さすがにこれはおかしい、青柳でも呼びに行くべきだろうか、と頭の片隅で思いつつ、何だか嫌な予感と共に扉を開けた。
彼女は真っ赤な浴槽に浸かっていた。まだ、身体は浮いていなかった。生きていた。
「!」
なりふり構わず彼女を浴槽から引き上げた。おぞましいほどに切られていた手首からは絶え間なく血が流れていた。冷たい彼女は衣服を纏っており、赤黒く染まりきっていたそれとは対照的に、肌は青白さを増していた。
「ずっとおもってた。黒を赤く染めるように、濁ったシャツを漂白するように。この血液を抜いてみたらいいと思った。白くなったら、愛してもらえる?」
彼女は仄暗い目で、真っ直ぐ俺を見ては、静かに泣き笑い、どこまでも自らを呪う言葉を吐いたのだ。
「許せないの。ねえ、白い私を最初に見るのはあなたがいい」
俺は彼女を救えなかったのだ。分かれなかったのだ。救わなかったのだ。その絶望が分からなかったのだ。
浴槽には少しの菊が浮いていて、底にはフローリストナイフが沈んでいた。
彼女は俺に、それを教えた。誰も俺を理解できない、してくれない。しないでくれ。
『ねえ、狡噛さん』
そうして彼女だけが、亡き後、俺を手に入れた。大した女だ、全く。今の方が、彼女の声が鮮明に聴こえてしまうのだ。
「狡噛さん、いつまで煙草吸ってるんですか。そろそろ行きますよ!」
「はいはい。常守監視官」
追い縋っているだけの紫煙が、俺の息とともに、寒空を裂いて消えてしまった。
TearWhite