彼がラバーソールを履くようになったのはいつからだろう。いつだって先輩の靴は一目で分かる、良い靴だ。彼の足は私の足よりずっと大きくて、彼の一歩は私の一歩よりずっと遠い。それは昔から変わっていないことだった。でも昔は、後ろを振り向いてくれたり、待っていてくれた。こちらへ来るなと、刺すような背中では無かった。

 分厚いその背中、狡噛先輩は、今も変わらないトレーニングウェアを愛用しているのを知ってる。昔みたいに体を鍛えて、されどその目的は変わっている。

、どうした。何かあったのか?」

 いつからだろう、彼が私のことを名字で呼ぶように戻ってしまったのは。初めて名前を呼ばれた時の気恥ずかしさ、嬉しさ、忘れようにもない、手を伸ばすことを恐れていた。手に入れ難かった幸福は、やはり全て、消えてなくなってしまった。

「先輩」

 彼の部屋の靴箱の奥の方には、彼が最後に履いていた靴が一足、入っている。書斎の引き出しには、ピンクストライプのネクタイと、ピン、ポケットチーフが、一対。彼は全てを心の奥に仕舞い込んでしまった。誰も手を伸ばすことは許さないとでもいうように、深く深く。その深淵に手を伸ばすな、と拒まれて、それでも彼は、完全に私を突き放さなかった。

「…緊急のようには見えないが。監視官権限で入って来るなんて、らしくもない」

 彼は私の私物をひとつでも、もらってくれるのだろうか。
 彼は私のことを、少しでも思い出してくれるだろうか。
 彼は私のために生きてくれるだろうか。生きた屍としてでも。

「ごめんなさい。始めから私が死ねばよかった」

 もしそうであれば、彼は呪われなかった。誰も、不幸にはならなかった。
 ずっと言えなかった。ずっと話せなかった。ずっと向き合えなかった。私は彼を傷つけるためにここへ来たんだろうか。先輩はひどく傷ついた顔をして、怒りを隠しもせず、こちらへやってきた。
 背の高い、体の大きな、男の人が怒るのは、怖いものだろう、中々しっくりこなかった。先輩は、近しい人に力をふるう人じゃない。近くなくたって、理由もなしに、その力をふるわないことを知っていた。
 彼がどんっと私を壁に縫い付けて、ひどく私を見下ろしている。

「言いたいことはそれだけか」

 恐ろしいほどに低い声がその場を渦巻いて、逃げ出したいのに、逃げ出せない。彼の存在そのものが私を縛っているのだ。まるで彼のように。
 淡い想いは消えてくれなかった。ここに彼が居る現実が私を苦しめて、もう二度と報われることのないこの想いを、想うことは不毛なもので、めっきり濁らせてしまった。全て隠然として。彼の代わりに私が死んでいれば良かったのだ。

 靴箱には、彼が最期に履いていた靴が一足あって、引き出しには、ブルーチェックのネクタイが入ってる。今。ルーズに、真っ黒になってしまったそれを手に取って、ああ、これが欲しいな、と思った。

死に方