「……またお前、こんなところに。お前んとこの監視官が探してた。戻ってやれ」
強い風がふいて、彼女の髪が揺らいだ。夕焼けが眩しい、逆光に焼かれた彼女が振り向いて、視線が合って一瞬。彼女が屋上の柵に寄りかかって顔を上げ、空を眺めた。
「例えば、明日。人が滅んじゃったらどうする」
執行官、彼女が突拍子もないのはいつものことで、それは花表よりも哲学的で、天利よりも思考が飛んでいる。
「……どう、と言われてもな」
「もし君と私、二人だけ生き残ったら」
彼女が顔を下ろした。その目が俺を見る。…人類の復活を求めるなら、答えなんか一つだが、そんな回答は求めちゃいないだろう、ということだけは分かる。何だっていうんだ、といつも思う。誰が、いつ、どこで、何を、どうして、なんのために、そのあたりの概念が彼女の頭からはすっぽ抜けている。いや、伝えようと全くしないのだ。その癖、人を引っ掻き回す。
「何が言いたい」
「あれ、犯してくれないの?」
彼女が笑った。彼女は彼女の思考の中にだけ住んでいる。その思考が読めたことなど一度も無い。彼女は積極的に人と関わらない。唯一気心知れたような佐々山に彼女のことを尋ねると、決まって煙草を吸ってはぐらかされる。視線を明後日にやって。
「…揶揄うな。結局何が言いたかったんだ」
「もしそうなら、どこへだって行けそうだなって。――戻ろうよ、優しい狡噛監視官」
端的に言って理解不能だ。ため息が漏れた。ただ一つだけ知っているのは、彼女は多分、この場所が好きだということだ。
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「、お前、命令違反したのか。なんか騒ぎになってるぞ」
昨日の出動で、新入りの執行官が取り残されたから、監視官の撤退命令を無視した。心は半ば決まっていた。
救出して合流したらドミネーターを向けられて、その銃口をしかと見た。しかしトリガーにかけられたその指は動かず銃を下げた。知らなくていいことを教える必要なんか無いだろう。彼が今日は私の隣に並び、柵に肘をついて、説明を求めている。
「鳥になりたいな」
「…人間は飛べないだろ」
いつものように無難な答えが返されて、けど彼の頭の中に、私を自由にする概念は存在しないのだ。今日も空を見上げる。
「どこへだって行けるのに」
「お前、なんでそう無視するんだ。というかこないだから、どっか行きたいなら外出申請でもしてくれ、俺でよければ付いてってやるから」
「狡噛監視官には付いてきて欲しくないなあ」
「……お前な、人の親切を」
「ふふ、こちらこそ」
顔を下ろして彼を見る。終ぞ理解が出来ないとき、彼は額をおさえてため息を漏らす。目が合った。口角が上がってしまう、だって簡単なことなのに。
佐々山なんかはよくもまあ、囚われない思考で人を見ている。多分、佐々山は私を理解している、私も佐々山を理解している。固く閉ざした口をひらくことはおそらく無い。佐々山が近い将来こうなってしまわないといい。
「…分かるように言ってくれないか」
不貞腐れたように前を見据えた、彼の瞳に映った落陽が綺麗だった。だから、飛ぶなら今日がいい。彼が思い出してくれなくても、彼の瞳にそれが映された時、きっと世界が思い出すから。
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出勤すると、公安内がやけにザワついていた。エレベーターに乗り込んで、刑事課のフロアに到着し、扉が開いた瞬間、佐々山が乗り込んできた。
「狡噛、ツラ貸せ」
執行官フロアを選択し、許可は取ってる、という佐々山について行くと、奴が見知らぬ部屋のロックを解除した。部屋のナンバーからの部屋だと分かった。それから佐々山は俺を部屋に押し込んで、「お前の好きにしろ」と言った。何か言おうとして佐々山を見るが、その表情に口を噤む。さっきからずっと発言できないままだ。佐々山の雰囲気が俺を拒絶していて、何か、よくない考えが、思考が、繋がり始める。繋げたくはない。家主を探そうと足を踏み出した。
「死んだんだよ。自殺だ」
耳から入ってきた言葉を脳が理解した瞬間、思考が止まった。頭を殴られたような衝撃で、息が詰まる。そういうことだったのだ。吐き捨てるように言い切った佐々山が、「遅えよ」と呟いた。
*
皮肉にも、命令違反の際に記録されていた彼女の色相は、執行官のものでは到底なかったと、今更になって知らされた。綺麗な色だった。彼女は昨日の深夜、屋上から飛び降りたとみられている。今日の夕焼けは、俺の目には色褪せて見えて、彼女もここには居なかった。
彼女はいってしまった。俺の心に残ったままだ。彼女は何を思っていたのか。答えは一生でないだろう。
落日