「常守さん、ちょっといい?」
「っはい、」
私何かしてしまったんだろうか、と緊張した面もちで私の呼び出しに応じる彼女は偉い。けど従わざるを得ないだろう、私は気付いたら課長という椅子に縛り付けられているのだから。
「狡噛くんの煙草の購入申請、許可してるの、やめてもらえないかな」
「……すみません、私も煙草は得意じゃなくて、副流煙の害もありますから、控えてくださいとは言ってるんですけど、」
「じゃあなんで許可してるの」
「…すみません、狡噛さんの機嫌が悪くなって職務にまで影響をきたす時もあって、」
「気にしないってことは出来ない?別に狡噛くんの機嫌が悪いのは気にしなくていいから」
「でも、仕事もやりにくくて…。えっと、その、さんがそこまで仰られる理由をお尋ねしてもいいでしょうか」
申し訳なさそうにすれど、きちんと上司に質問が出来る彼女は強いと思う。それなのに狡噛くんの機嫌が悪そうにしている様をスルー出来ないあたり、彼女は自分がうまいこと掌で転がされていることに気付いてない。本気で機嫌が悪い時はサンドバッグにでも当り散らすような人だし、口寂しい時と過去を掘り返す時に吸いたいだけで、別に普段は無くたって生きていけるだろうに。少なくとも彼の性格上、本気で禁煙しようと思えばさほど難しいことではあるまい。
しかし理由、理由ね。そんなの決まっている、佐々山くんを思い出したくないからだ、思い出させたくないからだ。
常守朱さんが配属する前までは私が狡噛くんの手綱を握っていた。シビュラにとってもその方が都合が良いからだ。私は狡噛くんに生きていて欲しくて、シビュラは手駒が欲しい。私は外務省の知り合いもいるから海外事情に疎い方ではないし、日本から出る気は更々ない、上に、佐々山くんの時の真実を――藤間幸三郎のことを知っている。そんな私を縛り付けて狡噛くんを監視させるのは非常に合理的であり、彼らの言葉を借りるなら、賢者の選択だと言えるだろう。私は狡噛くんに免罪体質者なんて追いかけてほしくない。その先には何もないのだ。どうせ藤間の裏にもシビュラで裁けない、似たような人間が居たに決まってる。それに例えば旧式の裁判制度やらで裁くとして、それを行える人間もまず居ない。免罪体質者が犯罪を犯したら、シビュラに引き入れ脳を剥くか、しか無いのだ。では、狡噛くんは一体どうするか。これも簡単なことだ。彼は、彼自らの手を選び取るに違いない。裁ける人間は居ないのに、人を殺す方法だけは、何も変わらずに、今も存在しているのだから。
「課長、あの…」
「…理由、検討も付かないのなら、私の口からは言えないことだよ」
「なら、私は狡噛さんの購入申請を現時点で無碍にすることは出来ません。それに唐之杜さんも吸われていますし…」
「志恩は医師免許を持ってるから、自分の身体のことくらい自分で分かるもの」
「狡噛さんだって、そのくらいはご自身で管理なさると思います」
下唇を噛んだ。狡噛くんはまだ話していないんだろう。未解決と言えど、あの事件はもう過ぎたことだ。それに話したとして、そんな些細な情報まで口にするだろうか。しないに違いない。けど彼が常守さんを自室に引き入れたら分かることだ。常守さんだって腐っても監視官で、刑事の端くれなのだから。彼の部屋に留めてある写真に気付いて直ぐに察するだろう。とにかく、私は彼にそれを反芻して欲しくないのだ。自分を責め続けて欲しくない。そんな風に居て欲しくない。かつて唇を合わせた時に、彼がそれを吸い始めたと分かった時の私の気持ちなど、彼は知る由もない。
「私ね、あなたが配属されるまでずっと狡噛くんの手綱を握ってた」
「手綱って、私はそんなつもりじゃ、」
「それでずっと煙草の購入申請を拒否してたの。だから、あんなにバカスカ吸うことも無かった。それなのに彼、今はもうニコチン中毒者みたいになっちゃったね」
「……申し訳ありません、徐々に許可する量を減らしていきます」
「ゼロにはできない?」
「はい、直ぐには難しいと思います。私は、業務を円滑に進めるために、狡噛さんには煙草が必要なものであると感じます。けれど、それもコントロールしてこその監視官だと、覚えておきます」
彼女が謝罪した。狡噛さんに文句を言って欲しい、と彼女は言いたいだろうに。私の肩書きの前に我慢しているんだろう。別に、私は常守さんをいじめたいわけではないし、謝ってほしいわけでもない。そんな言葉望んでない。けれど彼女の言い分に過不足は無い。これ以上を求めるのなら本人に言うべきだ。それこそ私はそれが出来なければならない地位にいる。それなのに、一端の監視官を呼び出して怒っている時点で、自分ではどうにかできないと言っているようなものだ。
顔を上げない彼女の後頭部を見飽きて、私は踵を返した。何を言っていいかも分からなかった。分かった、とも、よろしく、とも。何も分かっていないし、よろしくも何もない。
が、彼女が購入申請を拒否し続ければいいだけの話であるんだ。そこまで私の元に最終確認が回って来ていたら私が過労死するので、直属の監視官が全権を握っている状態だから。狡噛くんの分だけ私にまで最終確認が届くようにすればいいって、そういう風に特別扱いをするわけにもいかない。彼のサイコパスは煙草を吸ったって吸わなくたって特に変わらない、ということは、ただのわたくしごとでしかないから。それこそ、煙草を吸わなくたって佐々山くんのことを忘れていない証明でもあるのに。どうやったら佐々山くんは彼の脳裏から薄れてくれるのだろう。君が死んだのはあまりに酷かったけれど、死んだら化けて出てやんぞ、とは言うかもしれないが、死んで人を呪うような奴じゃないことだけは確かなのに。
*
「、お前、常守に何吹き込んだんだ」
「名前で呼ばないでって言ったよね。煙草はやめないし、反抗期なの?」
「質問に答えろ」
「イライラしてるね、煮干しあげようか」
退勤しようとしたら廊下で狡噛くんと擦れ違って声をかけられてしまった。この人は相変わらず私の事を昔みたいに名前で呼ぶし、執行官になってからは俺様だ。昔はそんなことなかったのに。筋トレのしすぎでカルシウムが足りないんだと思う、睡眠時間もか。今度志恩に死ぬ一歩手前まで睡眠薬でも飲ませてもらった方がいいんじゃないの。とりあえずカルシウムを差し上げようと、鞄から煮干しを取り出して彼の眼前に袋ごと突き出してみたが、いつかのように受け取られることは無かった。私の直属だったときは、ぽりぽりつまんで一係のみんなに笑われていたというのに。本人はむすっとしていたが。ああでも、今は常守さんが居るから不要だね。
「そうだよね、もう煮干しいらないよね。好きなだけ煙草吸えるようになったんだもんね」
しまい込もうとしたら、突如手首をがっちりと掴まれてしまって知っている温度に心臓が跳ねた。ここ数年触れようとなんてしなかったのに、何でいきなり。触らないでほしい。どこがどう変わったってこの人の体温が変わることは無いのだから、思い出してしまう、嫌だ。振り払おうとしてもビクともしなかったし、こんなのは彼にとっては何の気のないことではあるのだ。人に触ることが多い癖も治ってない。昔あんなに止めてと言ったのに。けど、彼の“普通”に当てはめられるほど、私への情は薄れたのだろう。それはそれで良かったと思える、彼は私ではなく佐々山くんを選んでいる、もうずっと前に。
「お前相変わらず人の話聞かないな」
「――話してない。狡噛くんが言う気がないなら、私はどうだっていいから」
「…俺は、そのうち話す時がくるんじゃないかと思ってる」
「そう、よかったね。じゃあお疲れ」
だから何、と口に出さずに言葉を選んだ私は偉いと思う。しかし狡噛くんが全く私の手首を離さないばかりか、彼はくるりと体を反転させてずかずかエレベーターへ向かっていく。途中の柱に掴まって全力で抵抗しているが、執行官になってから更に鍛え抜かれた、もはや自虐なんじゃないのか、半ば異常だ、そんな彼の肉体が力を込めてしまえば足が引き摺られる前に手首が抜けそうになってきている、本当に抜けそうだ、痛いのは嫌だ、意味が分からない。振り向かない彼が更にぐっと半歩進んだところで私の口からは悲鳴のような声が出た。
「っ痛い、離して――!」
気付くと手首が自由になっていたことに、振って痛みを紛らわせていたら気付いた。けれどいつの間にか彼が私を壁際に縫いつけていて、顔を見上げるが違和感があった、ネクタイが無い。脇の下から逃げようとすれば、彼は私の手首をうまいこと縛り上げて私を担ぎ上げた。手際が良すぎて抵抗も出来なかった。彼がずっと噤んでいるその口を、横抱きにされたまま見上げているしかなかった。ひざ裏と腕をがっちりと固められてしまっていては無力だ。
「いい加減にして。更生施設に戻りたいの?」
「出来るもんならやってみろ」
淡々と口を動かした彼はエレベーターに乗り込んで執行官フロアを選択している。常守さんは、怒られちゃって、と狡噛くんに漏らしたに違いないし、釈然としなかっただろうから、狡噛くんに尋ねただろう。しかし狡噛くんはそれをまだ話さなかった。と予測する、そして本人がそう私に告げた。何故彼は私に告げたのか、どうでもいいよ、そんなこと、勝手にしたらいいし、何故拘束されているのかも全く分からない。彼の機嫌を損ねる前に地雷を踏んだ覚えもない。ただ私に関係のないことだと言外に告げただけだし、実際関係ないじゃないか。早足に過ぎていく廊下の天井を背景に彼を睨みつけていれば、ちらりと彼が私を見下ろした。
「気にされてると分かって嬉しくてな」
「嬉しんでる人の顔じゃないし、一体何が嬉しいって言うの」
「関係がないって言うんなら、俺のことをずっと放っておけばよかったんだ」
「刑事課に長い人を失うのは極力避けたいよ」
彼が部屋の認証を終えて踏み込んだ。てっきり降ろしてもらえると思っていた私は逃げ出す準備をしていたというのに、彼はリビングを抜けて左手の扉を開けて、その部屋の黒いソファに私を降ろして馬乗りになった。ふざけないでよ、急所を蹴り飛ばそうと膝を上げようとしたが、私が何度も潜在犯を立ち回りで撃退しているのを知っている彼は、その女の凶暴性をよく理解しているので、見事に私を抑え込み、頭突きを防ぐためにおでこまで押さえつけていた。狡噛くん、合意が無いなら犯罪だからね、分かってる?色相濁るよ。お願いだから300だけは超えないでよ。
「俺は、まだお前のことを想ってる」
「二兎を追う者は一兎をも得ずだって、私の事はもう諦めたでしょ」
「俺は欲深いんだ、悪いな。お前がまだ俺の事を想っていると分かったら、もう耐え忍ぶことは出来ない」
なんだこの勝手な男は、狡噛くんそんな人だと思わなかった、どうせいつか、昔みたいに私じゃない何かを選び取るくせに、次こそはっきりと分かっている、前科持ちなら猶更だ。私はそんな人と元の鞘に収まる気なんて無い。それこそ、私と彼だってもう終わった話だ、過ぎたことだ。けれど嫌いだと口を開くことは出来ず、横を向いていれば彼の手が私の後頭部に回って上を向かされて、降りてきた彼の顔に驚いて目を閉じたら、唇が塞がれた。信じられない、慎也くん、少しくらい色相濁っちゃえばいい。でも私の存在なんて彼の色相に関与しないに違いない。そうなら潜在犯になってないし。息が煙草臭い、嫌い。彼の舌は、いつかみたいに私の唇を割って、歯列をなぞりあげて口を開けろと伝えてくるが、意地でも開けてやるものか。歯を食いしばっていたら、そのうちに彼が口を離して、額と額を合わせて押し付けた。近すぎて表情などほぼ分からないが、心底気に食わなさそうな顔をしていることは分かる。
「私を抱きたいなら、すっぱり煙草を止めて」
「確かに、煙草自体はお前が口を塞いでくれでもすれば必要ない時の方が多いな」
「よく言うね、付き合ってる時に吸い始めた癖に」
「…たまにふと吸いたくなるんだ」
「狡噛くんは、勝手に呪われてるんだよ」
彼が私の顎を引っ掴んだ。後頭部の手は外されていたようだ、しかし彼の額が私を押さえているので身動きは取れないままだ。顎が強引に掴み開けられてまた彼の唇が降ってきた。舌が入ってきて、逃げる私の舌を絡め取って、もうやめてほしかった。ぼろりと涙が一筋こぼれた。折角忘れ始めていたのに。いとも容易く彼は私の心を抉って傷跡を残す。顎にかかっていた手は外されていたから、もう歯を突き立ててやった。ガリ、という触感と、少し遅れて鉄の味がした。慎也くんは酷い。
「~~っ!!うぁ゛、おっまえ、」
「佐々山くんは復讐なんて望んでない。でも、全部慎也くんの自由だよ」
反射的に離れて起き上がった彼は口を押さえている。私も起き上がって、彼の下から抜け出て後ろ手で扉に手をかけた。
「私はずっと慎也くんのことが好きだと思う、だけどもう一緒には居れないよ。今までありがとう、さよなら」
全てあの時言えなかった言葉だ。またね、と言えば、更に歪んだ彼の表情を目に焼き付けて、背を向け部屋を出る。溢れだしそうな涙を必死に誤魔化しながら、もう楽になりたい、と思ってしまった。人を簡単に殺せるだけ、自分の命を絶つことだって簡単だ、簡単なことだ。死ぬことなんていつでも出来る、だから、それこそ彼がまだ生きているうちは、ここにいるうちは生かしておきたい。彼の諦めが悪いことは知ってるし、きっと彼はいつかマキシマって奴に辿り着いて、そいつを殺してしまうに決まってる。けれど、彼は人からの本気の拒絶を覆してしまうほどの力は無いことも知っている。私の想いを確信して強引に唇を塞いだって、女性に否定を突き付けられてなお無理矢理犯すような人じゃないことも知っている。これでよかったのだ。彼は変わってない。彼は彼のまま、私の手の届かないところへ行ってしまっただけなのだ。佐々山くんはきっと、今の私たちを見て大バカども、とひどく怒るに違いない。
悠遠