或る日やってきた男が一言、力を貸してくれ、と懇願した。何、と言わなくても愚問であった。
 力を貸すも何もあるまいに、私は飼われておる兎からして。囚われの月の中日々を永らえるだけよ。彼の日の月に帰ることも出来ずして。

 数十、百年前、薬師をしていたこともあったかな、伝染病を終息せしめたり、次世代を担うと言われたシビュラというものに貢献しようとして、目覚めたら不老不死にされていたとはしてやられてしもうた。許せぬ。若かりし頃の顔に戻され身体も乙女か、永遠に生きる怪物にでもなってしまったような気分であった。さりとて誰に合わす顔も無くなり、ついにそんな人は皆とうに故人なり。散。

 面識もなし、知りえもせぬ人間がそんな発言を、この隔離施設に足を踏み入れるなど。
 若し、暴力的な人間であれば話は変わってくるだろうが、厳重に管理されている此の施設で有り得もせぬ。
 電気は消えぬ、非常音も鳴らぬ、隣の部屋の者が壁に頭を打ち付けている音が聞こえるからして、変わらずと言える。
 この老婆に、一体何の用であるかの、果たしてこの者は私の正体を知っておるのか。然れどこの退屈からほんの一時とて離れられるのなら、私の心は既に決まっておるが。

「わっぱが私をここから出すと」
「そうだ」
「私は勝手だぞ」
「俺はあなたを信じたい」
「裏切ったとて裁けんぞ」
「その時は俺があなたを殺さなければならない取り決めだ」
「貴殿が道を誤ったら如何するか」
「あなたが俺を裁けばいい」
「そんなことは望まんよ。そうだな、若し其の時が来てしまったら、私の願いを何か一つ聞き入れてくれるかね」
「俺に出来ることなら、許可しよう」

 それは二つ目の呪いだったかもしれぬ。



 余りよったに押し付けられた気味悪い青色の麝香撫子が、将棋を指す手を花瓶から笑って見ておるわ。また薬を作らされてしもうたからに。一体何を作ったかと問うてくれるな、全く趣味の悪い。

ぱちり

「お前、アイツが死ねって言ったら死ぬの?」

ぱちり

「死ぬ、だろうな」

ぱちり

「頭イカれてんなぁ」

ぱちり

「私とて、頭をやられたら死んでしまうよ。まあ、身体は死なないが」

ぱちり

「便利な奴だな。お前、それでいいのかよ」

ぱちり

「おまえ、我々に否という権利があると申すか」

ぱちり

「ま、ねぇな」

ぱちり

「そうだろう。それに未だ永らえていても良い気分さ。王手」
「はっ!?……うわくそテメエ!」

 どーいう頭してんだよ、と申した其奴に、イカれている頭なんじゃなかったか、と厭味ったらしく軽口を返したこともあったかな。其奴が珍しく盤の写真を撮っていたことを覚えておる。あの時は、我ながら中々よくやったと思ったが、こんなものがどれだけうまく進められたところで、現実世界で役立てられたわけでもなし、分かりやすくも無意味であった。



 人間というものは予測不可能な行動をとる。ありとあらゆる生命体を探してもここまで複雑怪奇な物は居まい。間。

 私の身が軋んでいる。壊れるほどに強くそれを抱き締めているわっぱは、彼の者の匂いを身に纏っている。其の主はもう居ないというに。彼奴はそれも最悪の形で、呆気なく幕を閉じよった。

 さて、生き永らえた私からして、記憶というものの有害さを説こう。例えば、なにかひとつで明確にそれが脳に浮かび上がってくる様、瞬時にそれを探し、理解し、反芻され、やれ危険が大きかったものから順に始まる悪辣さ。人間の防衛本能というやつか。

 此奴の纏う其の香りは妙に私の記憶を混乱させた。既知を上書きすることには無駄な労力が必要なんだというに、此奴は私に強制している。何も知らない方が遥かにましというもの。幸いなのは、彼奴の手の感触一つじっくり知らないことか。

「そう泣くな、時なんて一瞬に過ぎる」

 言いあやす。わっぱは、兎にも角にも自分が尊敬するものを疑わず犬っころのように懐いたが、失いて彼の世果てたり。

「許せないんだ」

 嗚呼、斯く迄に上手くいかぬ。なんと下らん世の中か、何も変わらんではないか。

 左様ならば。

「きみ、私を殺してみないかね。
 お前の手で、殴るも、武器を取るも、切り付けるも、撃ち抜くもよし。
 出来れば風穴一つで美しく殺してほしいものだがな。
 間違っても生きたまま弄んでくれるな。
 目玉を刳り貫いてくれるな。
 ばらばらにしてくれるな。
 して、主が誰を恨むのも当然と言える。
 併し其の先に何か有るか。
 有るというのなら、私を殺してくれよ。
 無いというのなら、私は君を裏切ろう。
 忘れたとは言わせんぞ。
 さあ汝、私を殺してみないかね」

 楽に自由にしてくれよ。

解く