――こないだの休みは。朱ちゃんに同行を頼んで、雑賀先生のお宅に伺うと予め彼から聞かされていた。彼女は休日だった筈なのに、その通りにしてもらえたらしい慎也は帰宅した私に嬉しそうに教授の健勝さを語って、朱ちゃんの勉強熱心な姿勢を称賛した。そういえば、と紙袋を差し出して、先生からお前にと預かった、というそれを受け取って開ければ、中には古めかしいボードゲーム盤が一つ。『オセロ』本を寄越さなかったのは慎也が気づいていないと踏んだからか、私をからかったのか、慎也をからかっているのか、仲良くしろよというメッセージか。慎也も何か思ってはいるだろうけど、何と発言したものか。読んだことがないとしらを切ればあらすじは知っていると言っているようなものだ。かといって触れなければそれは肯定を意味する。時間の経過は思考の経過だ。これ以上は危険だった。「へえ、すごいね。本物のゲーム盤だ」「今度、みんなでやってみるか」物体そのものへの感想を言えば、測り兼ねたんだろう慎也が当たり障りのない言葉を返した。私たち、わりと長いこと付き合っているのに、こういうところがある、私のせいなんだけれども。

 その前のときは。デスクワークばかりでストレスがたまっていたので、トレーニングルームを訪れたら、慎也が朱ちゃんにハウトゥー筋トレを語っていたことか。私にはわかる、喜んでる顔だった。楽しそうで何より、と思いつつ、半裸の彼とその上半身を観察している彼女に色々と気にしない素直さんたちだなと思った。そのうちに私に気付いた二人が嬉しそうに私を呼び止めて引き入れたことも、自分の情けなさの認知に拍車をかけた。

 さらに前はなんだっけ。食堂を通りかかった時二人して麺類をすすっていたのを見たんだったか。事件についてあれはどうだこれはどうだああでもないこうでもないと意見を交わしている彼等の会話を耳が拾い、信頼関係が見えたのだった。水を飲みきって席を立つのが面倒くさそうだった慎也に彼女が自身のコップを差し出したあたりで私の足は食堂を通り越した。一方で、後述するが朱ちゃんに相談を受けたことがあったので、彼女が彼と良い関係を築けたのは素直に嬉しいことだった。

 そんなこんなで、慎也に関しては以前より幾分か穏やかになった気がする。猟犬としている中でも、何かを見出したような。今までの彼は散々自暴自棄だったから。
 どうしたら復讐をやめて生きてくれるのか、彼を守るために何が必要かと考えて、色相の維持、局長との騙し合い、そんなことに時間を費やしてきた私は、果たして慎也のことをきちんと考えていたんだろうか。彼を救い上げるためには、もっと、現実的に、彼を今に生きさせるようにすれば良かっただけなのかもしれない。朱ちゃんには、そういう強さを感じたのだ。

 さて、朱ちゃんはとてもいい子で、自分の意見もはっきり持っていて、宜野座君に真っ向から向き合おうとする度胸すらあった。あの時は、泣きそうな顔で、ご相談させて頂けませんか、と休憩時間に私の執務室を訪ねたものだから、私は内心慌てふためいた記憶がある。監視官に辞められると困るし、私は他者の感情のケアを苦手としている自覚はあった。
 面倒くさい時の糖分補給用に、昔佐々山が拾ったからやる、とくれた趣味の悪いバスケットに積み上げている色とりどりのキャンディーを上から一つ二つ取って「泣いてもいいよ、大丈夫、何でも聞かせて」出来る限り優しく声をかけて、掌にそれを握らせてソファに座らせれば、俯いた彼女が洟を啜る音が聞こえた。そろりと彼女が開いた掌にはレモネードといちごミルクが乗っていた。嫌いじゃなければいいけど。
 しばらく背中をさすって寄り添っていたら、「少し落ち着きました、すみません、ありがとうございます」そう言った彼女が眉を下げて笑ったので離れる。頂いていいんですか?と続き、勿論と返す。レモネードを口に含んだ充血気味の彼女の目が嬉しそうに少し開かれていたので、どうやらお気に召したらしい。
 それから色んな話を聞いた。彼女はそういうつもりで言っているんじゃないだろうけど、出てくる出てくる一係のまずいところ。要指導だ。同時に宜野座君の色相もチェックして、局長にイジメも程々にするよう進言して、宜野座君のストレスケアと、慎也もあんまり好き勝手しないように咎めて、征陸さんの心労を労わって、秀星は餌で釣って注意して、ついでに志恩はセクハラ紛いの発言を戒めないと、弥生には偉いぞと高級カップうどんでも贈っておこうか、あーあーと私の脳みそがやることリストを構築していると、彼女がゆっくりとなめていたレモネードは無くなったようで、続け様にいちごミルクを口に運んでいた。
 飴を転がしながら、狡噛さんとどのように接したらいいんでしょう、肩を落として尋ねた彼女が続ける。優しい時もあるのに、かと思えばひとりでに飛び出して行ってもしまう、と。
 彼の扱い方を教えてやらねばならない。
 分かりにくいときは、行動をよく見た方が分かりやすい。言葉は滲み出ている表現で、相手を試していて、自分への問い掛けと、ただの確認作業な時だってあって。きちんと聞けば教えてくれるけど、本質は彼の行動にある。復讐スイッチが入っちゃったら放っといていいんだって、でも捜査中に暴走したら初めての時みたいに撃ちなさい、それが全てを守ることに繋がるから。
 言葉を切っても私の脳内では一人でに続く。そうとも知らずに彼女はありがとうございますと潤んだ瞳で思考の海に沈んだ。
 もう少し状況は考慮した方がいいし、ガソリンで溢れかえったフロアに火元を手にした潜在犯がいるなんて状況で、よくもまあそこまで人を信じたものだ。対象が潜在犯であってもなくても、私にはそんなに人を信じられる心が残っていない。慎也が命を落とすことにならなくて本当に良かった。もしそうなっていたら私はこの子を永遠に許せなかっただろう。この子もこの子だ、自分だって死ぬ危険性があったっていうのに。けど、そのぐらいの心がなければ人は変えられないんだろう。実際、件の被害者女性は犯罪係数オーバー300を叩きだしたにもかかわらず、彼女の命がけの説得によってパラライザーでの執行に留まり、今では色相も快方へ向かっていると聞く。同じだ。慎也も変わった、変えられた、彼女が変えたのだ。
 唸りながら百面相をしていた彼女はしばらくして立ち上がって、ありがとうございましたと深々と礼をした。それから「なんだか元気が出てきました、私、みんなと分かり合うこと、諦めません」頑張ります、と勢いよく敬礼をして出て行ったのだった。真面目でポジティブで行動力があって打たれ強い素晴らしい人だ。
 とりあえず、朱ちゃんはレモン系もいちご系もミルク系も嫌いじゃないんだろうな、ということを私はその日知ったのだった。

 彼女の相談から何日も経って、冒頭の事が過ぎて行って。久々に時間が出来たので、セラピーでも受けておこうとカウンセリングルームに向かっている途中、タイミングよく廊下で朱ちゃんと出くわしたので様子を聞いてみれば、やはり順調なようだった。向こうから慎也が来るのが見えたけど、話したくなくて、ふとその場を離れた。なんだか呆気なく感じられたものだ。

 そして今、私はまた一係の監視カメラを眺めていた。執務室に帰ってきてからずっとこんな感じだった。良くない。いつもなら彼がお昼時机に突っ伏す頃、気の抜けた顔を拝みに行くけど、やめる。そのうちに休憩に入った慎也が変な顔で廊下を進んで来るのが見えたので、私は見回りにでも行って来ようと席を立った。
 借りてる宿舎にもしばらく帰っていない。わざわざ自宅から通勤している私は物好きなのかもしれない、今さらか。慎也の入室許可を取り消してしてしまえばいい話なんだけど、できない私も中途半端が過ぎる。メールもコールもプライベートは全部ミュート、知らないことに徹底してしまえば感情が揺さぶられることは無いから。日に日にカメラ越しの慎也の目つきが悪くなっていくのは私の都合の良い思い込みか或いは。今日上がれば明日は慎也と休みが重なっている、ここで宿舎に帰ってみる可愛げでも持ち合わせていたら良かったのだろうか。

 私はオセロとは違う、けれど、嫉かずにいられない。嫉妬というものはみずから孕んで、みずから生れ落ちる化け物なのでございますもの。慎也のことは疑っていない、朱ちゃんのことも疑っていない。私が私を疑っていて、情けなくて、不甲斐なくて、苦しいのに、嫉かずにいられないその怪物を飼いこんで、肯定してしまうほどに慎也のことを愛してしまっているだけだ。でもそれを彼に告げてしまったら、蓋をしていなければ、どうにかなってしまう、きっと一人じゃ生きられなくなってしまうだろう。慎也はいつも私を甘やかしてその蓋を取り払おうとする。彼は復讐を追っているのに。勝手な男だ。けれど拒絶できない私も私で、だから彼の勝手も止められないのかもしれない。惚れた弱みというやつか、でもそれって、私だけが彼のことを好きみたい。

 強い子へと急成長を遂げている真っ只中の朱ちゃんは、持ち前のフットワークの軽さでどうしようもなくなっている私を簡単に連れ出して、おしゃれなカフェに私の身柄を拘束した。彼女の顔色から察するに、思ったよりもひどく後輩に迷惑をかけていたようだった私はうだうだと白状せねばならなかった。
 お詫びの心を込めて注文したストロベリーパフェを頬張った彼女は、甘酸っぱくておいしいです、さんも食べてください、とそれを差し出す。どこまでも気にしない質らしい。私たちは女同士だし、そういう線の子ではないだろうかったから、私は一口頂いて、その甘ったるさに絆されながら、今夜どうやって話そうか、彼への言い訳を考えるのだった。

刑事課一係重要指定事件より“拗らせた女”