ひんやりとして気持ちいい温度の給湯室の床に座り込んでボーっと一人を楽しんでいたら、靴音が聞こえてきてふいにそれは止まった。何故彼は給湯室に来たんだろう。この人はカフェイン中毒患者ではないと記憶しているが。淹れたエスプレッソはもう冷め切っている。アラームは鳴ってない。休憩時間は残ってる。まだこれに口をつける必要もないほどに。

「なんですか」
「いや、がいるかと思ってな、」
「用がないなら呼び止めないでもらえますか。私みたいのと一緒にいると潜在犯になっちゃいますよ」
「潜在犯と一緒に居ても平気だとシビュラが判断したから、俺は監視官をやれていると解釈しているが」

この人と交流するのはいつだって苦痛だ。それでも、彼の方を一瞥とせずとも私の名を呼んだ一声だけで誰か理解してしまうほどには、彼は私を気にかけた。

「コーヒー少しもらっていいか」いつの間にか視界に入っていた彼は勝手に私のマグに口をつけてそれを啜る。面倒くさくて視線を下げる。苦いだとか相変わらず冷えてるなとか彼が口を開いている。どうしてコミュニケーションをとろうとするんだろう。はっきり言わないと分からない人でもないだろうに。思い通りにいかない。床は冷たい。いつも私を哂ってくれる。冷たくて冷たくてさぞ気持ちがいい。人間は勝手だ。この際はっきりと言ってみようか。

「それあげますからどっか行ってくれませんか、私あなたとあまり関わりたくないんですよ、分かりませんか」
「分からないからいつも尋ねてるんだろう、訳を言わないのはお前だ」
「はあ、なんで禾生局長はあなたに私を任せたんでしょうね、神が人間に課す愛ある試練だとでも仰いますか?」
「どうだろうな、俺は別段のことをそういう風に思っていないから――」

ここまで言われても折れない心があれば監視官でいれたんだろうか。きっと根本的にこの人は拒否されたことがないんだろう。素直で、誠実で、実直で、裏切らない、誰も、自分も。だからどこでだって自分が受け入れられると思っているのかもしれない。感謝も、謝罪も、純真さも、もう、それがそれであるだけで、鬱陶しい。

「――い、おい、聞いているのか」
「いいえ」
「なんでお前は俺にだけそうなんだ」
「佐々山より素行は悪くないでしょ、それに仕事で困ったことあります?そういうことですよ」
「俺だって傷つかないわけじゃない」
「じゃあなんですか、私が傷ついてないとでも言いたいんですか」

苛々する。あなたがあなたであるだけで無条件に私を傷つける。こんな筈じゃなかった、私だってこんな筈じゃなかった。そんな過去の懺悔で私が私を傷つける、その感情をこの人の存在が思い起こさせる。

「それならせめて普通に接してくれないか、何か気に食わないことがあるのなら言ってくれ、誠心誠意努力する」
「だから関わりたくないと言ってるじゃないですか、分かり合えないのなら距離を置くだけでいいんです、その尊重を求めます。監視官の色相のためにも」
「なら尚更だ、お前がその理由を説明したことは一度としてない。どうも俺のことを目のかたきにしてないか。何かしたんなら謝らせてほしい、だが中身のない謝罪はしたくない、だからそれが何か教えてくれと、俺はずっと言ってるつもりだったんだが」

苦笑する彼は怒りもしない。わからない。わかりたくもない。この人に私のことなんてわかるわけない、本当に、あなたが謝ることなんて何もない。あなたは確かに”良い”人だから。私の中であなたが出来ないことなんて何もない。夢を見て自分を傷つけている。でもそれが夢でも夢じゃなくても関係ない、確かにあなたは私の中で”良い”人だった。周りの人も彼のことを”良い”人っていう。それなら相対的に彼を自らのエゴで受け入れられない私はただの”悪い”人だ。

「監視官は何も悪くないですよ、本当に。すべて自分の勝手です。放っておいてください」
「どうしても駄目か。教えてくれないか、分からなければ改められない、どうしようもないだろう。俺は改めたいんだ」
「改めることなんて何一つありませんよ。全部私が悪いんです、ごめんなさい」
「何でお前が悪いことになる、」

一人にしてくれと立ち上がった私の腕を行かせないと彼は引っ掴んだ。そんな人間らしい扱い方なんかしないで、私はもう人間じゃない。首根っこでも引っ掴んでくれたらいいのに。
消えるべきなのは私だ。既にシビュラが証明している。シビュラじゃなくたって、周りの人間全員がそう言うかもしれない。間違いなく、価値があるのはこの人だ。私には何もない、全て失った。何もないのは自分のせいで、どれだけ何を言ったって変わらない。頑張って何か積み重ねてみたって、ドロドロとした感情が消えることはきっと無い、過去が消えることの無いように。
なんで、どうして、理由なんて無いよ。ただただあなたのことが嫌い。けれど、馬鹿の反対が天才で天才と馬鹿が紙一重なら嫌いも好きも同じで愛憎も何も変わらない、それなら愛しているとでも言い狂ってやろうか。それでもそれに中身なんてない、私は私を愛していて同じくらい憎んでいるよ、あなたはそれに巻き込まれているだけ、私が巻き込んでるだけだ、けれども。

「人の目に空が青くうつること自体に理由なんてないでしょう、それだけです」
「それは、そのように俺が嫌いだということか」
「違いますよ。私は私が嫌いなんですよ、これ以上傷を広げてどうしたいんです」
「俺は、好きだ」
「――いい加減にしてください!」

終ぞ耐えられなかった。衝動のままに反対の手指にカップの取っ手をひっかけて中身を監視官にぶちまけて、床に叩き付けて割った。いい音がした。好きなカップだった。彼は微動だにしなかった。彼を傷つけたいわけじゃなかった。自分を傷つけた。中身が冷たいからやったのだ。私は彼に甘えている。

「狡噛さんに撃たれて死ねたら、いくらか報われるでしょうね」

エスカトロジー