僕が生まれた日も、こんな日だったらしい。山肌には深く雪が積もり、仄暗い曇天、何もかも止まったような静かな日。十八年前の今日、僕は生まれた。
北に来れば、雪を見るのは街からでいい。任務は昨夜全て終えたから、残す今日は僕のバースデーパーティー!って予定だった。と一緒に出張任務を組んでくれた夜蛾センだって、珍しく気が利いてたっつーのに。僕はちょっといい宿を取ったし、調べてくれたらしいケーキ屋さんに予約をしてたのはどこの誰だっけ?バカみたいに僕を祝ってくれるんじゃなかったの。静寂の中、一面の銀世界に尚もしんしんと降り続ける雪は、彼女の小さな足跡の輪郭を少しずつ朧げにしていく。
地上へ降り立って、足跡を踏んだ。僕の足がどれだけでも大きいので、周りの雪に無限で阻まれて、足を降ろすことすら叶わなかったが。
こんなにも僕の体が大きいのは、こんな世界を守るためだろう。僕が六眼を持って生まれたのは、世界の均衡を保つためだろう。全てを覆ってる空みたいに、人々を守るために生まれ落ちた。そう思うことが自然だった。決して驕りでは無かったと思う。親友一人とさえ分かり合えないのだと、分かったあの日までは。
「」
返事は無い。きっと世界は恐ろしく寒いのだろう。足跡がつかずとも、音がたたずとも、吐く息は白く霧散していく。近寄ると、伏せられた青白い瞼、凍りかけている睫毛、浅い呼吸に、紫色の唇が目立った。
僕以外の存在は全員平等に弱くて儚いから、僕が守ってゆくのだと、この目を持って生まれたものの宿命として、受け入れることは簡単だった筈なのに。僕が“特別”にしちゃったからかなぁ。こうして目の前で、愛しい人が真っ白な雪にうずもれているのを眺めていると、僕が塞いでいる空がどんどん瓦解してくるように思われる。
彼女までどうして、こんなところに自身の足で来てしまったのだろう。僕が特別に思っているものばかりが僕から離れていこうとする。その意思を尊重できず、追ってきてしまった僕も僕だ。――傑は追わなかった癖に?傑との違いはなんだったろう。身体を重ねたこと?自省して一緒に居たつもりだったけど、まだ足りなかったのかな。僕の好き、は伝わってなかったのかな。一緒にいたいだけなのに、どうも応えられないみたいだ。それじゃダメらしい。なんで?応えてくれなくていいし、同じだけ返してくれなくても構わない。ただ僕がお前を好きなだけじゃ、何で駄目なの。
僕は彼女の周りの雪を術式で跳ね飛ばし、彼女を腕の中に収めた。凍えるような体がずしりと重く感じられた。無限の内側に入れた彼女の、更に水気を払ってから、着ていた上着を脱ぎ彼女にかけて、氷のように冷たくなっている目元に手を添える。
今、僕たちは世界と隔絶されても、その内側に共に居るのに、僕自身まで凍っていくのかと錯覚するほどだ。
まあお前なら、僕の体温、全部持ってってもいいよ。あげるよ。あげたい。特別扱いをしたい。でも、目を瞑ることしか許されない。隣じゃなくても、世界のどこか同じ空の下に居てくれればいいと、目を瞑ることしか。
「起きろ。オイ」
再度声をかけると、睫毛が僕の手の下で微かに動く感覚がして、さっと手を退けて彼女を覗き込む。瞳孔は開いたり閉じたりを繰り返しながら僕を映す努力をしているが、僕の瞳の上を滑っていくような、目の合っていない嫌な感じだ。温めないと、芯まで冷え切ったこの体は、うつらうつらと微睡んでいる間に目を閉じ切って、この手の中で息をしなくなって絶えてしまう。――彼女はそれを望んでいたんじゃないのか。
「…ねえ、こんなとこで何してたの」
執着はしないべきだ。全てあるがままでいい。人間がいれば人を呪って、吹き溜まり、呪霊が生まれて、術師が祓う。理解している。当たり前のことだと体現している、苦でも無い。けれど誰だって、離れていくのは相手の意思だと、遣る瀬無い不甲斐なさを、二度も味わいたくは無いだろう。
僕は彼女を抱きかかえ、一気に上空へ上がり空中を駆けだした。こんな寒い場所とはおさらばして早く山を下ってしまおう。
指の一本も動かないんだろう彼女は僕に全てを預けながら、ぼんやりと、瞳に灰色の空を映している。僕を見て欲しい。お前だけは離れていかないで、ずっと傍にいて。伝えたら、頷いてくれるかな。好きだよ、どうしようもないくらい。胸の奥で燻ぶるこれが執着なのか愛なのか、今の僕には分からなくなってしまったけど、傑は初恋だって教えてくれたんだ。お前にしか解けない僕の初恋を、どうか。
宿に戻り、暖かい部屋の暖炉の前を陣取るように腰を下ろして、ぼーっと彼女を横抱きに温め続けしばらくすると、かじかんだ彼女の指先が少しの赤みを取り戻し始める。鳴っていた歯も収まって、すり寄って来た彼女がやっと僕を瞳に映し、いつもみたいに表情を緩めた。僕は頷いて彼女の頭を撫ぜる。
「…さと、る」
「…何やってたの、お前。あんなとこで」
「悟へのプレゼントを、考えてて。空、見てたら。寝ちゃってた…」
そんなに空、見たいなら、僕の眼でも見てればいいのに。は僕から目を逸らして、ゆらゆら揺れる暖炉の火を見つめてだんまりだ。なんで、どういうつもりでこんなことをしたのか、僕には全く分からない。傑なら、分かったんだろうか。僕は傑の事もの事も分からないことばっかりで、その素振りですら気が付けない。自分に心底嫌気が差すよりも前に彼らは居なくなってしまう。未だ凍えるような彼女の手を温めるように、自分の手のひらに収めた。どうしてと追及できる勇気が僕にあったなら、こんな風に黙っていることは無かっただろう。
「悟が、ずっと。…傑のこと、考えてるから」
それで、と急かしたい気持ちを抑え、僕は辛抱強く彼女の言葉を待つ。促すように、彼女と指を絡めてその手を包むと、伏せられた目が泣きそうに歪んで、きゅ、と指が絡め合わされた。ゆっくりと彼女が続ける。
「…雪に埋もれて春を待ったら、雪解けに目覚めたら、帰って来てないかなぁ、って思って」
「凍って解けたら、二度と元に戻らないよ」
思ったよりも低く響いた僕の声に、が顔を上げ「だって、」と声を張った。彼女の瞳がきらきらと、みるみるうちに薄い膜で覆われていく。払われた手が弱弱しく僕の胸を押し返してくるから、離してやらない、と僕は抱き締めている腕に殊更力を込めた。口を開けては閉じて、こんな時でさえ彼女は言葉を選んでいるようだった。
「…傑になりたかったの。目覚めなくても、悟の傷になれるかな、って。分からなくていいよ。こんな私を分からないで欲しい」
お前が心の内を打ち明けてくれなかったから、ただ僕の傍に居て欲しいと、僕だってずっと言えずにいた。きっとこれが僕の悪癖なんだろう。同じ気持ちでいてくれると、違わぬものだと疑わず、相手がこんなにも僕を想っていたことに、相手がこうまでなってやっと気が付く。
「誕生日、おめでとう。悟。傑じゃなくて、ごめんね」
全てが止まっちゃったみたいに静まり返って、暖炉の木がはぜる音でさえ聞こえなくなった。もしかしたら、今この時が、僕が生まれ落ちた瞬間だったのかもしれない。
こんなにも歪んでしまう前に、お前が好きだって、素直に言えば良かった。皮肉にも、僕に善悪を与えて、僕を解氷したヤツは消えちまって、僕の世界にはまた厳冬がやって来たんだ。ああすれば良かったこうすれば良かった、気付いていれば言ってくれてればと後悔ばかりが募ってゆく。
「…オマエ、そんなこと思ってたの」
僕のせいで、もう僕ら、歪んだ形の上にしか成り立たない。あのぬるま湯みたいな春には戻れない。僕たちは傑を呪い、呪われすぎている。
けど僕は、お前と傑を同じにしたことなんて、ただの一度だって――。
「代わりには、ならないし、しない。したこと、ない。お前が勝手に思ってるだけ」
彼女が緩く首を振る。ぼろぼろ涙を零しているの瞳を真っ直ぐ覗き込んで、目元を指で優しくなぞった。
今の僕を見て欲しい。この僕を解いて欲しい。許して、どこまでも受け入れ合って共に在りたいと思うのを、愛と呼んでいいのなら、僕はお前のことをどれだけでも愛してる。だからこそ、僕が許していた傑が、僕を許せなかったことがこんなにも痛いんだ。
「私じゃ、悟に、頼らせてあげられない」
傑は、昔の僕に一番近い生き物だった。それを最後に、もう誰も、僕と同じじゃない。果てしのない孤独を抱える為に、強者は恐れを失くすのだろう。きっと悲しみにあふれてしまうから。
僕は、が消えてしまったのなら、傑に同じことをしただろうか。肉体は魂の入れ物で、世界だって入れ物に過ぎない。肉体が消滅したとき、魂がどこへ消えるのかは僕にも分からない。そんな、それまでもそれからも共に在りたいと思う、この世界のたった二人。――傑との違いはなんだったろう。僕が一つになりたいと思ったこと。どろどろに混じれて同じところに還りたいと思ったこと。全てを許すことが出来たこと。僕が君を手にかけられること。君が一人ぼっちで死んでしまうこと。僕は今日、それが許せなかったんだ。
「僕が死に際に、一緒に連れていきたいと思うのは、傑じゃない。お前だよ」
僕はお前を一人で死なせてやれない。言葉にすれば、それはすとんと自身の胸に落ちてくる。この熱を誰かに明け渡すことも、例え傑相手にだろうが、きっと僕は出来ない。
僕の名前を呼んだ彼女が、泣きじゃくりながら僕にしがみついて、何度も何度も僕の名前を呼ぶ。彼女の柔らかな頬を支え、コツンと額を合わせた。彼女の目と目があって、睫毛を伏せて、鼻先を擦れ合わせて口付けを交す。じわりと胸が溶けていくような、他の誰にも渡したくないと思うようなこの熱が、恋というものらしい。胸がつかえて堪らなくて、呼吸すら満足に出来ない。どれだけでもお前が欲しくって、収めることなど出来やしない。
僕は愛を知ってから恋を手に入れた。お前が解いた僕の初恋が、傑が名前をくれた僕の初恋が、自分というものを思い出していく。
もしも、僕がこの腐った呪術界を変える前に、傑と出会ってしまったら、傑の息の根を止めるのは、僕だ。生憎僕の命と傑の命は一つずつしか無いから、どちらか一つしか叶わないのなら、僕はちゃんとお前の元に帰って来るよ。いつか必ず、会えるような気がしてるから。だからその時、僕がこの世界に迷ってしまわないように、隣に居て。
君の命が絶えるまで、僕が世界を塞いでいられたらどんなに良いだろう。堪らなく幸福で、そんなに残酷なこともないだろう、僕ら二度とあの日々に戻れないなんてさ。
不可逆の融解