傑と別々の道を歩み始めてから、僕の一人称は俺から僕に変わって、昔はそりゃもうさぞかしクソだった口調も、生徒が怯えないように一新された。
傑がそう言っていた、傑ならこうしただろう、そんな風に考えた。そして出来上がったのはまるで傑のコピーを組み込んだみたいな自分だった。
自分というものを見失いかけている。数年前から気付いている。
傑にとっての呪術師とは弱きを助け守るためにあった。俺の存在意義はただただ呪いを祓うことにあった。守られるだけの弱い存在は、黙って俺に守られてるか勝手に死ねと思っていた。それは呪術師たちも例外じゃない。
高専の、皆でよく屯ってた場所に座り込んで、一人を待っている。
生きているヤツの中では、彼女は一番近い距離にいる。それも、人手不足による忙殺のせいで最近めっきり話せてない始末だ。もうずっと彼女の笑顔なんか見れちゃいない。いつから、なんて覚えてないけど、きっとあの日、傑が居なくなってからだ。
はっきり言って、俺の人生は幸せと不幸の落差がひどすぎんだよね。もうちょっと平凡で居てみたかったとか、まぁ生まれた瞬間から無理な夢だったな。
きっと俺は元が空だったから、色んなものがよく入ったんだろう。六眼と無下限呪術の抱き合わせ。小さい頃から命狙われて、使用人がバッタバタ死んでいく。俺はまるで疫病神みたいだった。家に“俺”を見てくれる奴は勿論いなかったから、自然と俺は素行のクソさにスキルポイントを降っていった。そんな分かりやすい反抗期だった。傷付けた人間は数知れないが、まだこの世界がある。それは、傷付けた以上に弱きものを救っているという、証明にはなっている。
俺の人生が変わったのは、高専に入って傑とツルむようになってから。あいつは色んな視点をくれた。世界の見方を教えてくれたようなもんだった。
あいつの目を通して俺は確かに他人の目に映る世界を見た。それは自分の目に映る世界と同じようで、完璧に違った。煌めいていた。楽しかった。傑が見ている世界だけは信じてもいいと思った。
傑だけは違ったからだ。アイツだけは同じ目線で、俺と肩を並べて呪いを祓える奴だった。あの時期だけ、俺は一人ぼっちじゃなかった。
――もし。もう俺の隣に並べないとでも思ったんなら、黙って守られてればよかったのに。
俺にはどうしても、非術師を全員殺す、それを選ぶなんて選択肢はありえなかった。守るべきものだと言ったその口で、いきなり正反対のことを言われた俺の気持ちがお前に分かるかよ。そんなことしたって無意味だし、呪いが生まれないなら、呪術師が存在する意味もない。呪霊がいなくなったら俺はどうやって生きていくんだ。その世界に俺はいらないだろ。そんな世界は僕もいらない。それは自分を手放すことと同じだった。
例えば傑が言ったような、バッカげた幸福かもしれない世界を今、実現したとしても、俺にとって意味のある日々を、共に過ごしていたかった存在はもう欠けてしまったし、俺は他人の他人なんて心底どうでもいいんだよ。守るものがなくなった今、無意味な人生なのかなと考えることはあるが、恵が五条先生と後ろをついてくるから、そんな僕を手放すわけにもいかないだろ。
皆、何か自分の大切な物を守りたいだけなんじゃないの。傑も、そうだったんだろう、きっと。
傑は、俺とそれを天秤にかけて、そっちを取ったに過ぎない。俺だって、人のこと言えねーけどさ。
結局最後に、夏油傑という困った俺のたった一人の親友は、俺に“自分”を選ぶか傑を選ぶかという、最悪の対極を秤にのせて強いたんだ。その“自分”に、世界が含まれてるんだから、やってらんないよね。
「五条、お待たせ。悲しくないの?」
「うん?悲しいと思うよ」
「昔はよく顔に出たのに。傑みたいに煙に巻くようになっちゃったね。五条のくせに」
やっと来てそう言った彼女こそ、よっぽど無表情で、手に持った一本の線香に火をつけた。
僕の気のせいじゃなければ、彼女は俺のことが好きだったと思う。学生時代のはそれはそれはもう可愛かった。俺も彼女のことが気になっていたから、声かけて馬乗りになってヤることヤったっけ。
今も綺麗に育ちやがった、数え切れないほど俺に汚されてる癖に見かけ綺麗なままのは、線香をぱたぱたと手で扇ぐのに忙しそうにしている。
どうしたってそんな風にドライに、傑の死体は燃やせなかった。アイツを殺すのは俺しかいないと思ってたし、それはいいんだ。死んだってずっと俺の中に生きてる。俺らズッ友だし。でもどうしても、何でだろうな、燃やせなかった。
焼けて、灰になって、何もなかったことになる。俺が確実に殺したのに、殺したことを認知したくないなんて都合が良いにも程がある。確かにあいつの呪力が止まるのをこの目で見たのにな。
独特の臭いが鼻をついていく。臭いは様々な物質が混ざってるから、いまいち無限で弾くのが面倒くさいものの一つだ。何かが焼けたときの臭いは僕に、色々なことを思い出させる。音、臭い、感覚。眉間に皺が寄るのが分かった。
「線香臭いんだけど。こっち向けんな」
「わぁ怖い声。人間はこうやって供養するんだって、人間を。私たち人間じゃないけどさ、見習ってみようよ」
彼女が俺の隣に腰を下ろすと、ぽろっと灰が彼女の膝の上に落ちた。熱い、と彼女が呟いた。熱さを感じたようには見えなかった。
「ねえ五条?」
ここ数年だ。彼女も何かを落としてきてしまったのかもしれない。俺の知らないところで? 嫌だな。俺を置いて変わるんじゃねえよ。昔はもっと、五条五条って嬉しそうに名前呼んでくれたじゃん。そういう可愛気どこに置いてきたんだよ。
「人間ってなんだろう?」
「そんなん、」
ただ欲情して、したらセックスして、メシくって寝て、ここまで人間と一緒。人間っつーのは非術師で、息をして人を呪って生きてる偉大なノミみたいなやつらだろ。俺らはその代わりに呪霊祓って、って、そっちの割合が高いだけ。呪術師っていうのはただそれだけの存在だ。
「誰が人間で、誰が人間じゃないのかな。非術師が人間なら、呪術師は人間じゃないの?傑は何を守りたかったのかな」
この腐った呪術界を変えたいと思っているのは本当で、たまに手が滑っちゃうほど上層部は憎たらしい。だから僕も、呪霊こそ生まずとも、人を呪って生きているんだと思う。ただその呪いを自家発電のようにぐるぐる回してるだけでさ。
けど、そんな僕たち偉大な呪術師は人間であって人間じゃないらしい、それは僕も幼少より言われていたことだった。
「…人間じゃなかったら一体なんなんだよ。俺のこの胸の痛みに名前つけてくんない?」
「硝子に聞いた方が良くない?私に聞いたってそんなの、傑ちゃんへの恋心でしゅぅ、って答えしかもらえないよ」
「ねぇ俺真面目に聞いてんだけど。せめてもうちょいましな回答にして」
「ん-、じゃあ傑くんの愛と言う名の呪いにかかっちゃった可哀相な悟君」
「うっざもういい分かった黙れ」
「先生のお面剥がれてますよ?」
「お前しかいないだろ」
彼女は線香花火みたいに一本寂しく燃えている線香をその手で持って眺めている。傑は居なくなったのに、この図太い女は今もなんだかんだ生きて、俺の傍にいる。硝子もだ。
はーあー傑はさぁ、クソが付くほど優しすぎんだよ。気付かなかった俺も俺だけど、俺が気付けるわけじゃないじゃん。そんなとこ期待しないでよ。直接言ってよ。決めてから言うなよ。ナヨナヨ一人で勝手に闇堕ちしちゃってさ。親友に闇堕ちされたら、残った方はまともな道、歩むしかないじゃん。五条家の名だって俺のチカラだって何もかもが俺を逃がしちゃくんないよ。
過去を悔やんでるわけじゃない。呪詛師、呪霊、何もかも、呪いは祓う。そう教えられてきて、それが俺の基盤で、存在そのものだ。けど傑がいなくなって、年々世界と自分との境界が曖昧になっているように思えてる。それは呪いと自分が溶け合っていくような、自己が消滅して理と一緒になるような、感覚。まずいよな。
昔は薄気味悪さを感じていたハズなのに、その心地よさは年々強まっている。たまに思い返したとき、気持ち悪いと心底思う。あの感覚初めて得た時――伏黒甚爾と戦った時。俺は空でも飛べそうだ思った。死ぬほど生きてることが気持ち良かった。最強になったと思った。実際そうなって、色んなものを落っことしてきた。一言で言うなら、孤独になったのだと思う。
僕ほど強いやつはいる?最強のこの僕と肩を並べられる存在が。背中合わせになれる存在が。いないだろ。これ以上アイツの居場所を奪われて堪るか。俺の隣は一生傑が陣取ってるよ。畜生。五条悟は最強でいなければならない。僕は五条悟でいたい。アイツが僕に与えたものが失われないように、今日も僕はの記憶に縋る。それしかできないワケ。最強が聞いて呆れるよな。
「なぁ、嬉しいってどういうときに使う言葉だっけ?」
「恵君と一緒に居るとき」
「つらいは?」
「葵にマッスルハグされてるとき」
「寒いは?」
「無限解いて冬の東北への任務。熱いは、コーヒーに砂糖入れる前に喉に突っ込んだとき」
「じゃ、悲しいは」
「あの日から、ずっとだよ。傑の代わりにされると、私も悲しいよ」
痛い、とこぼした彼女の手元の線香は、いつの間にか彼女の指先をジリジリ燃やしていた。彼女は表情一つ変えない。皮膚が焼ける悪臭に耐え切れず、彼女の手を払って開かせる。黒く煤けて熱を持っていた。線香は燃え尽きている。もう弔いは終わりだ。
「お前も無表情、悪化したね」
「そうかな」
よっこらしょ、と立ち上がり、目の前の自販機で缶ペプシ買って、に持たせてやった。「冷やせ」「冷たいよ」「うん」ふと、返事をした俺の胸に、彼女がペプシの缶をひっつけようとしていた。無限で止まってるけど。何してんの。
「ねえ、五条の方が悲しそうに見えるんだよ、あの日からずっと。だから代わりにしていいよ」
「お前に傑の代わりが務まるかよ。俺の手で殺せただけ良かったと思ってる。平気だよ」
「悟、あの日もおんなじこと言ってた。刺激が足りないから、心だけじゃなくてアタマも退化しちゃったんじゃないの。たまには無限解いたら?」
「ヤダ。お前に殺されないとも限らない」
「殺さないよ」
「へこむなよ」
「へこんでない」
「ふうん。じゃ、へこんでよ」
「無理な相談。私だって五条に置いてかれた一人だもん」
「はぁ?隣に居んじゃん、結局お前が」
「いて欲しかったのは私じゃないでしょ」
あっけらかんと言い放ったが、「私が代わりになれればよかったね」って笑う。久しぶりに見た微笑みに胸が焦がれるより先に、頭に血がのぼって手が出た。
「二度と言うな」
どっかでペプシが落ちてった凄い音がして、彼女の背中が凄い勢いで壁に張り付いていた。彼女は数秒遅れて息を漏らして咳をしている。俺はの首を持って壁に縫い付けている。ひどい顔してるんだろうなぁ、僕。
はそんな僕の目隠しを恐れ知らずにずり下げた。
「大丈夫、やっぱり悟、変わってないよ。好きも嫌いも分かんないんだ」
「お前が好きだよ。好きだったよ」
「依存してもいいよ。それが五条の自己肯定になるなら。だって私は、五条が沢山持っている玩具の一つだもの」
こうやって、世界が既に俺のものだって、は笑ってみせる。それを守ってる俺が、親友を追いつめて手にかけた自己を肯定しているだけなんだと笑って見せる。苦しくなっていく。毒でも入れられてるみたいだ。『人っていうのはね、どんな環境でも生きていけるように、自己を正当化しだすものなんだよ』。
「、オマエって結構傑と似てるよな。昔から全っっっ然変わってない。本心明かしてくれたことないよね。はっきり言えよ」
彼女の瞳に映っている俺が、思ったより無表情で笑えてくる。俺の目に映ってる彼女も微笑んだまま動きはしない。いつからお前だってこんな風になっちゃったのか、お前は何を思ってるのか、せめてそのくらい教えろよ。
「隣にいて欲しかったよ。私。弱い私を見殺しにするような、自由な五条に望まれて、五条の隣にいたかった。でももう違う夢を見つけたから、さよならするんだよ」
「何でそうやって僕を置いてこうとするわけ。離すわけないでしょ」
「そうだね。だから私、一生かけて五条と夏油を忘れるよ」
なんてひどい答えだろう。泣かないでって俺の名前を呼んで、彼女が俺の顔に手を伸ばすから、その手を取って、人肌に泣き崩れそうになった。「絶対忘れんじゃねえ」反対の手には徐々に力が籠って、の首を塞いでいく。
お前が忘れたら、どうやって俺は傑を思い出すんだよ。お前に俺を忘れられたら、俺はどうやって生きていくんだよ。
俺たちはこの場所で弔って、前に進もうとしながら、呪いと同じようにずっとぐるぐる留まってる。進んでんのか戻ってんのかも分かんねえ。守って、祓って、ぐるぐるぐるぐる。無言は肯定になるって教えてくれたのは誰だったっけ。俺だってもう、笑えねえよ。あー、このまま殺しちまいたい。
Regression