「。抱かせて」
廊下で後ろから五条先輩に名前を呼ばれた。振り向いたらそう言われた。神妙な顔である。口が一文字になっている。
五条先輩は恥ずかしい時、ムカついてる時、ふつうの気分のとき、こんな口元をしている。グラサンの真っ黒力がつよつよつよのつよでお目目が見えないため、五条先輩の表情を読むのは大変難しい。つまりどういうことだってばよ。
「えっと?」
「……抱かせて欲しいんだけど」
五条先輩はムッとした。私が理解していないことに不服を感じたことは分かった。
だがしかしここは廊下である。五条先輩が変なこと言ってるどうしよう。テレビで動物の特集でも見たのかな。抱っこちゃんになればいいんですか? それにしたって分かりません。重要なことだから三回言うけどここは廊下である。
目をぱちぱちして首を傾げて何言ってるかよく分かりませんという態度で先輩を見上げる。
「だから、抱かせろつってんだよ!」
先輩は吠えるように言った。
「ええ?」
だっこ? だっこさせてってことだよね? 顔怖いし。
私の家が大層なお金を積んで、五条先輩に私を抱いてくださいとお願いしてみる、ならともかく、五条先輩がそんなことを家系の相手に頼むなんてありえない。一方的にそういうことをするのが許される立場だし、五条先輩が望むことに対して、全ヒラ呪術師に拒否権などハナから無い。幸いなのは五条先輩が国宝級のイケメンだということだろう、ほとんどの相手は普通に喜ぶと思う。
だからといって、いくら重度のお坊ちゃまの五条先輩だって、言葉をぼかしているとはいえ意訳『セックスしたいんですけど!』と廊下で声高に言うなんて気の狂った真似はしないんじゃないか。つまり。
抱っこぐらいなら。パンダだかコアラだかラッコだかナマケモノだか、何に憧れちゃったのか分かりませんけど。まあそのくらいなら。
「……重いとか、言わないでくれるなら」
「それは、……ヘーキ」
なんですかその間は。もう少し念を押しておこう。
「思ったより太ましいなとかも、やめてくださいね」
「言わねーよ」
「……なら、どうぞ」
ばっと両手を広げて、抱きしめるなり脇に手を入れて抱き上げるなりどうぞお好きにしてくださいのポーズを取ると、やっと先輩のうるつや唇が嬉しさを隠しきれないように口角を上げた。
先輩は気恥ずかしそうに近寄って来て私の片手を取って繋ぐ。それから、行くぞ、という素振りで前を向いて歩き始めた。え?
「どこ行くんですか?」
「どこって、……俺の部屋」
「え? それはさすがに。ここでしてください、どうぞ」
「はっ!? は?! ここで!? え!? ……エ???」
こんなテンパってる五条先輩久しぶりに見た。
五条先輩は勢いよく私の手を放り出すと、は? え? あ? と赤くなったり青くなったり大混乱を極めている。ガーンッって効果音が見えるかのように驚いている。絶望すら入ってるかもしれない。
っはあ、と先輩が大きく息を吸った。ヒエ。
「オマエ何考えてんの!? 俺んな特殊な趣味ねーよ!! 傑にだってあんあん言うオマエ見られたくねえんだけど! マジで無理!!」
「あ、……あ?」
「流石に喘ぐだろ。やっぱナシとか無しだかんな」
あえぐ。あえ、ぐ。あえぐ。あえ? 苦しさで?
「……あえぐ???」
「お前突っ込まれて揺さぶられて少しも声出ねーわけ? それにお前処女だろ床でとかありえねえんじゃねえの」
「え、あの、え、だ、……だっこじゃなくて?」
「セックスに決まってんだろ」
「え」
むり。むり。むりむりむり。
「むりです!!!」
「は!? 俺はちゃんと抱かせろつったし」
先輩が激怒している。これが夏油先輩が言ってたブチギレさとちゃんモード。黒目が眼のフチについてなくて怖いよお。そんな、そんなぁ。いや、えぇ。
少女漫画で稀に見る『髪に芋ケンピついてるよ……(フッ)』よりレアだと思う。廊下のど真ん中で、『抱かせて:意訳エッチさせて』と言い放ち即座に自室に連れ込もうとする男なんて現実にいるとは思わない。
いや、そりゃ五条先輩だけど。箱入りおぼっちゃまの五条家当主様だけど。アレなんで私に許可を取ってるんだこの人。優しいから? 優しいから。優しさ? 優しさって何だろう。
そうだな、何かの勘違いに違いない!
「抱くって言葉の意味でも調べてみましょう!」
さあ談話室でケータイでもいじりましょう!
先輩に背を向けてスタスタ歩き出すと、即座に手首を掴まれた。ダメだったか。ここは諭すしかない。
いいですか、先輩。全てが間違っています。
笑顔で後ろを振り向く。さあ言ってやろうとすると、五条先輩は俯いて、思い詰めたように、犬がしょんぼりするようにしていた。お、お、怒れない……。
「……んなに俺のこと、ソーイウ風に見れないわけ」
寂し気な子犬みたいなオーラが見えてしまう。耳が垂れて、尻尾もしょんぼりして、きゅーん、と縋ってくる犬。大型犬だけど。五条先輩がわんちゃんに見える。でも、あの、けど。
「身分が違いすぎて、一晩だけだとしても、ちょっと、大分、難しいですね……」
五条先輩は唇を引き結んで、私の手首を掴む力を強めた。私は恐怖に震えるしかない。
「……俺がオマエのこと、好きだ、って言っても?」
「えっ」
す、す? すき。五条先輩が、私を、好き?
そうなんだ。五条先輩でも普通に好意的に思っている女子とエッチしたいのかもしれない。なんか、よく、分かんないけど。五条悟の好意許容範囲内だった己を誇らしく思えばいいのか泣けばいいのか分かんない。私だって五条先輩のお顔は大好きだけど、性格もまあ優しいとは思うけど、でもお家のことがとても、うん。
「……えっと。身分が違うので」
「……フるならもっとさあ……。俺のこと嫌いとか、なんか。言ってくんない」
俺、そんなんじゃ諦めきれねーんだけど。こんなんありかよ。と、五条先輩が小さく呟いて私の手を離してくれる。
やりきれない思いを滲ませているようなその声色に、何故だか弁明しなければと背筋が伸びる。よく躾けられた後輩だ。だって五条先輩も夏油先輩も、いつもオーラが凄いんだもん。夏油先輩は気持ちに寄り添う回答を、五条先輩は何故そう思ったのか論理的な説明を求めることが多い。
「えっと。まず五条先輩は術師相手には許可なんて取らずにそういうことが出来るじゃないですか。だからなんか抱っこしたいのかなって。その先は発想になかったです、すみません」
「……なんで、俺がお前のこと好きだからって思わねーんだよ」
夏油先輩あたりが助言したのかもしれない。なんか、そういうことをするにはまず合意を取ろうねとか、相手の気持ちを確認しようねとかなんとか言って。だからってストレートに、エッチさせてって廊下で言われるとは思わないし、五条先輩が私を好きになる理由がない。まずもって常日頃雑魚とか言われまくってるし。
そんな五条先輩は、しかし逃がさないと言わんばかりに私をこの場に留めている。多分納得するまで放してもらえないんだと思う。五条先輩が納得する回答は、ハイ勿論ですセックスします。イヤだよしないよ恐れ多いし後が怖い。住む世界が違いすぎる。
「五条先輩のことは好きです、でも身分的に万が一にも間違いがあったら困るんです。先輩の言う通り、私、雑魚だし、良い家の生まれでもない、普通に何一つ持ってないそこらへんの雑魚術師なので」
「……フーン」
五条先輩の表情は読めない。というかやっぱりよくよく考えずとも、五条先輩が私になんらかの許可を取ろうとしていることがまず異常だ。まだ遅くない。とにかく逃げるが勝ち。
「では失礼します」
おじぎして即座に踵を返すと脇から手が生えてきた。「わ」やばい、宙に浮く。
後ろから抱き上げられて、首元に頭を埋められる。ぎゅうっと密着されて、先輩、力持ちで器用だな……と感心する。なんだろ、気が向いたのかな。まあ確かに抱っこはしていいとは言った。言ったから仕方ない。
う~ん、なんだろ、これ。カンガルー、じゃないな。クマ? 二足歩行で子供を抱き上げる動物って何かいたっけ……。
それにしても五条先輩、やっぱり禪院家とかと比べたらよっぽど優しいな。比べるのも失礼なくらい優しいや。ちゃんと相手の人に許可とって行動が出来るようになった五条先輩すごい。いきなりだったけど。夏油先輩って凄いな、教育がうまくいっている。
先輩が吐く息が首筋に当たって、ちょっとくすぐったい。五条先輩デリカシーないから重いって言われたらヤだし、そろそろ離して欲しい。重いって言われる前に離脱したい。あと無言が怖い。
「あの、もうそろそろ」
離して、と促しても聞いてもらえず、それどころか五条先輩は軽々といった様子で私を抱えたまま、なんと廊下を歩き始めた。え、なんで?
「……や、ちょっと、どこ行くんですか先輩」
「俺の部屋だけど」
「なんで? スマプラでもしたいんですか?」
「お前俺の事好きなんだろ。なら何も問題ねーじゃん」
「いや問題しかないんですって」
そういう好きじゃないし。憧れとかアイドルをあがめるみたいなやつなんですけど。
降ろしてくださいと暴れてもなんの効果もない。普通に実力で勝てない。え、待って、詰んだ? そもそも抱っこ許可したのがまずかったんじゃ? なんで私先輩に声かけられて応えたんだろう。逃げた方が良かったんじゃ? 自力で脱出できないよコレ。詰んだんじゃ?
「せ、せんぱい。あの、スマプラなら談話室で一緒にしますから」
「絶対孕ます」
「ひ」
動物進化論