Short



「ただいま。悟くんのおかえりだよ~」

 返事はない。
 彼女の病は多岐に渡る。日がな一日死んだように寝ているか、大体は今みたいにリビングの床に何をするでもなく転がっている。それから蕎麦の匂いで泣くし、懐メロ聞いても泣く。カップで水飲んで泣いて、オレンジ色の僕のパンツを見てすら泣く。知りたくもないのに僕が彼女と傑の思い出をわざわざ眺めているようだった。
 ひとつひとつ、あらゆる刺激を排除して、その記憶が開かないように蓋をしようとしたけど、結局オマエも僕も傑の遺品を全ては処分できなかった。思い出があるものが特に。あーこれ傑好きだったなーとか、みんなで遊んだゲームとか、全部あの日から、僕が新たに借りたマンションに詰め込んでしまった。彼女を自由にするときっと死ぬから、僕は呪符を張りつけまくった趣味の悪いこの部屋にこないだ彼女も閉じ込めた。
 君が好きだったことすら忘れて、傑が好きだったことを忘れて、傑に半端にかけられた呪いを僕が引き継げると思った。女の恋は上書き保存って言うだろ。暴論か?
 ただ生きていただけで、傑は彼女の心を保っていたらしい。
 まるで幼子をあやすようだ。傑の部屋にあったものをそのままの形に整えれば、今を失って君はあの頃に戻れるよ。いつまで逃げてんだよ、とらしくもなく激昂する己があるのを自覚していた。
 今日も何一つ変わっていないシンクの横に、置かれていたカップが僕の手の中で砕け散る。彼女が傑と揃いで使っていたんだろうカップだ。傑のものは僕があの日に捨てた。

「いい加減、目、覚めた?」

 ばらばらになった破片が床に落ちて音を立てる。やる気なく横たわっていた彼女がこちらを向き、虚ろな目が僕を見上げた。

「現実を見ろよ。傑は死んだ。僕が殺した」

 こないだみたいに膝をかがめて目線を合わせて、指を曲げれば、ひっかかっていたカップの持ち手がすりぬけ落ちて行く。それからこうやって指の形を変えたんだ。傑が昔みたいに笑って心臓が止まって死んでいくのを覚えている。
 彼女は近寄ってきてしゃがむと、カップの破片をかき集めようとした。

「さわれない」
「血が出るからね」
「なんで壊したの」
「さっき言ったじゃん」
「頭悪いから覚えてないよ」

 そのまま床に腰を下ろして、ねえ、と彼女が僕に呼びかける。こういう時は決まっていつも同じ問答が始まる。高専時代にオマエのことバカつってたのは、なんて言ったらいいか分かんなかったからだよ。今ではオマエのことを本気のバカだと思ってるけど、オマエじゃなかったらこうまでしてないってなんで分かんないかな。

「なんで傑が死ななくちゃならなかったの?」
「非術師を殺した上にヤバイことやったからだけど?」
「どうして非術師を殺さなきゃいけなかったの?」
「傑がそうしたかったからじゃん?」
「非術師を殺せば術師が処分されるのはなんでだろう」
「そういう決まりがなきゃ、呪詛師が次々生まれるからでしょ」

 私も死にたいなあ、という彼女に返せる言葉なんか、世界中どこを探したってないだろうから、僕の存在そのものを答えにしてやろうと生きているのに、今考えれば彼女と傑はよくお似合いだったのかもしれない。どうしたって暗く考えるところがある。オマエの今を作ったのは誰だ? 傑だろ。
 バスケのルールもカップ麺の味もイケナイ遊びも全部傑が教えてくれたことだ。傑が居なきゃ別の誰かが僕に教えたかもしんない。でも、今の僕は傑がいたからできた。そうやって僕は死ぬまで生きていく。クソほどムカつくけど、そうじゃなきゃ、傑も傑と別れたあの日の僕も浮かばれないだろ。

晴れの日