俺の名前は伏黒恵だ。名前に黒がついてるだろ、暑さに弱いんだよ。そういうことにしておけ。
 クソ暑い夏、直射日光にギラギラ照らされながら、俺は内心悲鳴を上げリアルに半ば目を回していた。物理的におかしいさんの歩くスピードのせいだった。

「っあの。すみません!さん!歩くのを!もう少し!ゆっくりにして!頂けると!!!」

 結局、俺は必死に声を上げ訴えかけた。情けないが任務前の消耗は避けたかった。
 目を丸にして俺を振り返った黒スーツのさんは、汗一つかいていない。は? マジでどうなってんですか?
 そしてやっぱり、任務概要の説明に夢中だったようだ。俺の声は届いていなかったと思われる。彼女はタブレットを閉じて、あぁ、とやっと声を漏らした。

「ごめんなさい。ついうっかり」
「うっかりで、そんな、足は速くならない。呪力でも込めてるんスか?」
「いえ全く」
「さらっと言いやがった…さらっと…分かってましたけど…さらっと…」

 ありえねえ。それしか感想が無い。大阪出身のオバチャンは滅茶苦茶に歩く速度がハンパネェという。実際そんな呪霊を祓ったこともある。だがさんはあの二倍速はある。にも関わらず息切れ一つ見受けられない。この人もしかして一級呪霊とかなんかなんじゃないか?そっちの方が説得力がある。失礼なことを考えている自覚はあるがそれ程だ。
 しかしさんに出身地を訪ねるには、俺の喉の渇きは大分限界に達していた。既に保冷バッグを漁って下さっているさんを急かす様に声を絞り出す。

「なんか、水とか、無いですか…?すみません……」
「はい。見て下さいこの色、パプリカウォーターです」
「は?どう見てもコーラなんですけど」
「マジレスはやめてください冗談に決まってるでしょ。コーラですよ。キンキンに冷えた缶ペプシに、炭酸ならメロンソーダとかも。あ、いちごオレとかココアもありますけどどうします?」
「胸やけしそうなラインナップっすね…」
「はい。“最強”のラインナップです」

 くすりと笑ったさんは、正直言うとちょっと綺麗だった。けど、『なんで』って尋ねるのは愚問すぎる。そのラインナップどう考えても五条先生しか得しねぇ。こっちが“砂糖吐きそう”なんで勘弁してもらっていいっすか。

「声に出てますよ」
「げ。マジすんません」

 ――って、まさか。あれ?さんの足が異様に速い原因はっきりしてんじゃね?やっぱそういうことじゃね?そういうことなのか? いつも先生の補助監督をされているのはもしかして。伊地知さんの体調が最近よさそうなのは。いや確定だろ。何か分からんけどスッキリした。このクリアな頭なら任務もこなせそうだ。よし。――いやでも先生についていくの、ここまで大変って感じたことねーかも。あれ? 先生の最近の、底意地悪そうな弛んだにやにや顔が頭を過って行く。…ま、なんでもいいか。これ以上先生のあの顔を思い出したくない。
 俺はさんから有難くペプシを頂きながら、気持ちを任務へと切り替えた。

***

 補助監督、とは私である。私の業務内容は、最近めっきり五条悟特級術師のための労働になってしまっていた。
 伊地知さんからここ数ヵ月、毎回のように五条さんの補佐を頼まれているのだ。伊地知さんが毎回胃薬を片手に死んだ顔で頼んでくるものだから、まあいっかと毎回了承しているのだ。
 なぜなら、五条さんはこちらの仕事に関する話こそ全く聞いてくれないが、世間話はしてくれるし、任務帰りの彼の顔が見られた時の胸の高鳴りがどうしても過去になってくれなかったから。現在進行形なのだ。
 まあとにかく、私は五条さんは苦手じゃないから胃薬もいらないし、寧ろ一緒にいて楽しいほうなので、適材適所だと思うのだ。ありがとうございます、今頃私のデスクワークを神速で片づけてらして下さっているであろう伊地知先輩。
 ――で、問題は。さっきから任務概要を詳しく伝えているにもかかわらず空返事の五条さんです。

「五条さん。聞いてます?」
「聞いてる聞いてる」
「よーでるよーでる、みたいに言わないでください縁起でもない」
「呪霊でーてもダイジョブけん♪」

 まるで聞いていない五条さんの顔面にタブレットを投げつけた。「当たりまてーん」ぴろぴろぴー、わざとらしくパーにした両手を顔の横でひらひら振ってから、ゆっくりとふざけて余裕綽綽且私を煽るようなバカにした顔でタブレットを受け取った五条さんが、「はい」けれど打って変わったように紳士的に、私へそれを差し出す。手元に戻ってきたタブレット。差し返す。

「あげます。読んでください」
「めんどくさいから音読して」
「さっきしました。聞いてくれてなかったのは五条さんです」
「えー聞いてたよー?音読するが可愛いなと思ってさ~。だから内容は入ってこなかった」
「聞いてないっていうんです、それを」
「聞いてたって。の可愛い声は」
「バカにしてますね?」
「どこが?してない。褒めてるよ」
「百歩譲って私の声が本当に可愛かったとしてですよ。五条さんはそんな可愛い声を持つ女性を虐めるのが趣味だったんですね」
「今気づいたの?俺、好きな子は気付いたら虐めちゃってるタイプだよ」
「大人げない。小学生じゃないですか。小学五条さんって呼んでいいですか?」
「喧嘩売ってんの?」
「いいえ?褒めてるつもりです。口から生まれた小学五条さん。ねー」
「ねーじゃねーよ。憎まれ口ばっかり叩くちゃんも一体どこから生まれたんだろうね~?」
「憎まれ口?ただの事実しか言ってないんですけど」
「素直じゃない、に言い換えとく?」

 私は面倒くさくなって口を閉じた。人を揶揄いたい気分になっただろう時だけは、五条さんは死ぬほど面倒くさい。相手をしないが吉だ。そもそも何の話をしていたのかも忘れてしまった。しばらく彼とタブレットを押し付け合う。

。暑いからそれで扇いで。これは命令だ」

 面倒くさくなったんだろう五条さんも適当を言った。タブレットを掴んでいる私の手首を掴んでいる五条さんが無茶ぶりを言った。というか。

「そこまで暑いですか?全然暑そうにも見えませんけど。汗一つかいてないでしょう」
「暑い。メンドいくらい暑い」
「残念ながらこれじゃ扇げません。それに、いい加減任務時間に遅れます」

 掴まれている両手を緩く振って抗議してみるも、彼が力を緩めてくれる気配は一向に無い。彼は見てくれ暑苦しそうで実際暑苦しい真っ黒な襟ぐりの上で、私の言葉に口を尖らせている。

「もうちょっと戯れる時間くらいあるでしょ。僕のやる気を出せるのはだけなんだからさ。頼むよ。ちょっとだけ。ダメ?」
「……」

 そんなに暑いなら、制服を変えるとか、制服を変えるとか、した方がいい。五条さんなら出来るだろう。それなのに、何が頼むですか。私だって学生時代に非常に苦労したので、今では大分暑さに耐性がついてしまった。
 けれど、非常に真面目と言えば聞こえはいいが、結局彼に甘すぎる私は、彼の顔へ風を送ろうと、自身の首と腕と手首の酷使を始めてしまった。五条さんが暑さを感じている風には全然見えないけど、彼の真っ黒な目隠しは確かに少し暑そうだ。扇げば、見た目通りふわふわなんだろう彼の髪の毛先が、その風に少し揺れた。
 彼はうんうん頷いて満足そうにすると私の手からタブレットを奪い去り、次には、ぺら、と反対の手を差し出してきた。忙しい人だ。

「飲み物ある?」
「はいはい」

 タブレットを持ってくれている彼に甘えて私も保冷バッグを漁り、差し出されている彼の大きな手に、キンキンに冷えた缶のペプシ、プルタブを開けて握らせた。
 どちらともなく歩みを再開しながら、とてつもなく高い位置にある五条さんの喉仏が、ごくごく動くのを見ている。上を向いて大分気持ちよさそうに飲んでいるから、喉仏がギリギリ見える。
 そういえば恵君も、結局ペプシ飲んでたな。あの時は大分酷いことをしてしまった。なんでそんな風になったんだったっけ。あ、私の歩く速度が速いって話だった気がする。恵君には無茶を強いてしまった。五条さんの喉仏はまだ動いている。それにしても大分、恵君よりも高いところにあるなあ、喉仏、首、顔。しみじみ、実感がわく。
 やっぱり五条さんの身長はおかしい。予測するに190はあるだろう。羨ましい、10センチくらい分けて欲しい、または単純に五条さんに身長を縮んでもらいたい。私の首がどれだけ苦労しているか、五条さんはきっと知らない。
 あんまり見上げる首が痛いからって履いてみたヒールは、いつだか『危ないでしょ』って彼の一言に却下されてしまったし。少しくらい厚底でも、ブーツを今の季節に選ぶ人はいないだろう。
 五条さんの補佐を回されるようになってから、一日たりとも私の首と脚が痛くなかった日なんて無かった。歩きやすさ第一の革靴を履いている今だって、太ももの内側が毎日多少なりとも筋肉痛で――

「――あっ」

 分かった。そうだ、歩く速度が速すぎ、って、私の歩く速度が速いのって五条さんのせいじゃないですか?

「何?」
「いえ、何でも」

 大体五条さんのせいだったのかもしれない。全部五条さんのせいだ。他に五条さん並みに背が高い人といえば――あ、パンダ君。けど、そういえば、パンダ君の時は私、足が痛くなったことが無いかも。……あの子、分かってるんだっ…!!!

「気になるじゃん言ってよ。私の年収低すぎ?みたいな顔してるんだけど」
「いえ、何でも」
「それさっき聞いたよ」

 んー?と私を振り返って一歩、大きく詰めてきた彼、でも彼にとっては小さめの半歩ぐらいだろう。そんな五条さんの感覚を、何となく察してしまえるくらいには、私は彼の歩幅に追いつく努力をしてきてしまっていた。
 そうだ、五条さんの身長、歩幅についていくために、私の歩く速度は、もはやデフォルトが爆速になってしまっているのではないだろうか。
 五条さん仕様によく訓練された補助監督になってしまっている。これからはもっと他者を労わろう、気にかけよう。このままでは五条さんと一緒になってしまう。

「で、何?」
「大したことじゃないです」
「言わないつもり?」

 だって言ったら絶対拗ねますもん。言ってよ言ってくれなきゃ分かんないでしょ、とか言われそうな気がする。五条さんの機嫌を損ねても、機嫌を取るのも私なのだから教える必要のほうが無い。
 一歩後退ると、彼の一歩が優に私を追い越して腕を引かれ、って、抱き寄せられ、えっ、や、あの。彼はいとも簡単に私を片腕で拘束したまま、目隠しを下ろして、真っ直ぐに私を見下ろし始めた。すごく楽しそうな顔をしてるけど、どこまでも澄んだ色の涼し気な碧眼が私を射抜いている。顔が良すぎて頭が沸騰しそうだ。これ勝てる人の方が少ないやつですよね!?

「ほらほら言ってみろよ。今ならグッドルッキングに惑わされたって言い訳が通るよ」
「狡いんですけど!やめてください、――っひ、~~ちょ、」

 顔を背けたのに、直ぐに首裏にするりと手を差し込まれ、完全に固定されてしまったところだ。伊地知先輩の胃痛が分かった気がする。揶揄うにしても質が悪い。どうしようどうしようどうしよう。

「僕の顔、好きでしょ?気付いてないとでも思ってんの?顔真っ赤だ。かーわいー」
「っバレて、っていや、あの、暑いんです!暑いだけです。そんなにこっち見ないでください!そんなに知りたいんですか?」
のことならなんでもね」

 こういうところが五条さんが五条さんたる所以であり、私をわなわなさせるところだ。かっこいいけど、かっこいいけど。あなたの口の軽さは私だってよく知ってるんです!

「みんなにそう言ってる癖に。私そこまで安い女じゃありませんよ――っ顔近づけてこないでください、見上げる首が痛いんですから!」
「僕だって苦労してるんだよ。屈めてる首が凝りそうだ。だから早く教えて?」
「~~~近い!囁かないでください!」
「こら。目なんか閉じてると、このままチューしちゃうよ?いいの?」
「っだめ!言いますから止まって!あれです!あの!五条さんは気遣いができないって合点しただけです!」
「あ゛?」

 眼を見開き彼の碧眼に宣言したが、片目片眉をガラ悪く歪め、目頭から口角まで引き攣らせた彼の顔は一生忘れられないと思う。私は喉がひゅっと鳴った。美人が怒ると美しくて怖すぎる。拗ねるを通り越して怒らせてしまった。私は呪霊じゃないけど、どうもこの人から逃げ出したい気持ちがよく分かった。けど逃げるわけもなく、逃げられるわけもなく、逃がしても貰えないだろうから観念して。ちゅ、って食べられる数秒前、少しだけ背伸びして許しを乞うてみた。

▼こうかは ばつぐんだ!