失意という言葉には二通りの意味がある。ひとつ、裏切られたと失望を感じる瞬間。ふたつ、親しい者を永遠に失った時の感情。
五条と硝子が見守る医務室のベッドの上、横たわっている夏油傑という男は、奇しくも私に失意のすべてを味合わせている。
「傑くん」
亡骸の首の裏に手を差し込むと、あんなに強く立派だった首が、からからと音を立てるように私の手の中で転がり横たわる。力なく、骨と骨が鳴るような、手の中で崩れてゆくような。頬も、顎も、全身が弛緩している。そこでやっと、死んでしまったらしいと気がついた。
まだ気温と同じように熱を持ったまま、眺めているだけなら生きていると錯覚してしまう姿がここにある。手の中に抱きしめていなければ、死んでしまったのだと理解ができない。
理解していたことが心の底に落ちていくと、涙が溢れて胸の内側がせりあがって来る。
「オマエが元気か聞かれたよ。上から目線で何様のつもり? ってね」
ぼろぼろの和服の胸元はぴったりと閉じ合わされていて、裾までひどい損傷が見られる。きっと体はもっと傷だらけで、私だけが知っていた古傷に、私の知らない傷が上書きされているんだろう。私が知っていたのは見てくれだけの傑くんだった。最後、連れて行ってくれなかったことが何よりの証明だ。
強く抱き締めれば記憶の中の彼よりどれだけも小さくなっている気がして涙が溢れ出る。
この手が力を持って私を抱きしめることも、優しい声が私を呼ぶことももう無い。私が生きている限りそんな日は訪れない。
なんで?
私の事も五条の事すら放っていって、後悔だけ残させて、こんなことなら永遠にさよならして欲しかった。もう会わなくていいから、帰ってこなくてもいいから、ずっとどこかで胡散臭い笑顔振りまいて生きてるんだって信じさせていてくれれば良かった。あなたが生きていると思えるだけで今日まで生きていられた。帰ってくるかもしれないって、今日まで。
ずっと恨ませてくれないと困るのに、なんでそんなに穏やかな顔で息を止めて固まっているの。
「傑くん、起きて。死ぬなんて許さない」
なんで傑くんが死ななくちゃならなかったの。なんで私を連れて行ってくれなかったの。死んでしまったの? 私を置いて。五条さえ置いて。
「そう泣くなよ。最後の最後まで傑はオマエのこと考えてたんだよ? 良かったねえ」
五条の言葉に、私は奥歯を噛み締めて、彼を抱いている手のひらに力を込めないようにするのが精いっぱいだった。
「うそつき。傑くんが、私のことなんかでこんな穏やかな顔するわけない」
「卑屈かよ。お前等ホントお似合い~」
五条がわざとらしくパンパン手を叩いて茶化す。元気付けようとしてくれているのか、ただ深刻な空気を嫌っているだけなのか、分からない。平気なわけはない。大丈夫なわけはない。五条にとって傑くんの死は決して軽いものではない筈だ。傑くんを殺せる術師なんか限られてる。間違いなく五条が彼を殺している。
五条はどうして前へ進めたのか。私の知る由は無く、聞くことも無かった。でも今日、聞きたい。そうじゃなきゃ、後を追ってしまいそうな危うさが私の中にある。傑くんが一方的に私を連れて行ってくれなかったように、私も一方的に彼を恨んで、そうやって自己を保った数年間が行き場を失くす。傑くんと笑い合ったあの日から今日までのせいで、どうしたらいいか分からない。だから五条に聞きたい。誰よりも強く孤独で、誰よりも傑くんに近く、彼を穏やかな顔で終わらせることのできた五条に。
「五条は、どうするの?」
「何が? 別に何も変わんないよ。僕は記憶の集合体みたいなものだ。なら、僕が死なない限り傑は僕ん中で生き続ける」
五条はこのどうしようもない感情の片付け方を知っている。今日を乗り越えなくてもいい。心に住んでいるのだから。数年前に置き去られたさよならを恨んで生きて来た私とは正反対の在り方だ。だって彼は生きていた。今日からは、“生きていたことを愛すこと”。きっと、この世界を治めているといっても過言ではない五条にとって、死ぬことは往くことではなく還ることに過ぎない。
いつか言いたかったおかえりって言葉は言えないまま喉元につかえている。五条に欲しい言葉をもらったのだろう上からもう何を言うことも憚られた。聴覚は最後まで残っており、細胞が死にゆくのにすら時間が必要だという。最後に傑くんは何を聞いたのだろう。今、私に抱き締められていると感じてくれているだろうか。
いつか彼に会えたら、幸せだったか聞きたい。私はあの頃が一番幸せだったって、今でも傑くんのことが大好きだって、傑くんのせいで行き遅れたって文句を言ってやりたい。私のことを連れて行ってくれなかったのが唯一の結果だった、証明だった。“あった時間”なんかにしたくなかった。だから、ずっと待ってたんだよ。愛を呪いに変えてでも、ずっと。
*
五条悟曰く、己とは記憶である。記憶は魂に宿っている。
「君、夏油傑と親しい関係だった子だね」
二度のさよならをしたはずだった。あのまま一歩も進めていない私の、いっそ共に死んでしまいたかったと何度も願った私の、世界を色付けるだけ色付けて、半身引き裂いて死んでいった彼の、生前と変わらない姿、微笑み、声、呪力。
「傑、くん?」
「」
――これは、夏油傑だ。
私の名前を呼んだ声も、ほっとしたような顔も、そのまま夏油傑がここに居る。
彼は確かに死んでいた。五条と硝子が見間違えるはずがない。分かっている。頭が割かれた痕に、縫い目が刻まれている、これは夏油傑ではない。人を心底見下したような、それを隠しもしない笑みを彼は決して浮かべなかった。いつも笑顔に隠して仕舞い込む人だった。こんな顔をする傑くんは居ない。
「君って馬鹿だよね。連れて行ってって泣き叫べば連れて行ってもらえたんじゃないかな。夏油傑の言えなかった言葉を教えてあげようか。それとも最期の言葉がいいかい? 君の記憶が最初から最後まで夏油傑に根付いていたのは興味深かったよ」
耳を塞ぎたいのに体は言うことを聞かない。最後夢見た彼が意思を持って動き私を抱き留める仕草は、彼が生前と変わらぬ声で私の名前を呼ぶのは、全てが夏油傑そのものだ。
「いいの? 私を振り払わなくて」
彼の体温がじんわりと感じられて、動けない。五条にだって硝子にだって死人を生き返らせることはできないのに、こんなこと起きるはずない。ましてや、五条が止めを刺したのに。
なにか、大変なことが起こっている。五条に伝えなくちゃならない。私じゃ、コイツは殺せない。傑くんの皮を被ったコイツに体を動かすことさえ出来ない。死者を愚弄するような物言いに腹の底が焼けても、傑くんが生きていると感じる全てに抗うことが出来ない。怖いはずなのに、ひどく安心して涙が溢れて、彼の名前を呼んでしまう。
「もし肉体に魂が宿っているんだとすれば、この体は君を傷つけない」
私の顎を掬って顔を上げさせる動作でさえ、覗き込んだ目の色も、全部、全部。
「ま、そんなわけないんだけどね」
聴覚は最後まで残っており、細胞が死にゆくのにすら時間が必要だという。痛みを認識したのは一瞬で、直ぐに視界が霞み意識が遠のいた。思い出すのはあの日の笑顔だ。傑くんの手で死ねたことを、彼の呪力に殺されたことを、どうか報いと取れますように。
過去に磔