教室を後にすると、まるで入学式の日そのままのような晴天が私を迎えてくれた。何度目かの春の香りがする。ふわふわしたような気持ちで辺りを見回すと、いつもと同じ景色がばかみたいに懐かしいように見える。視界が潤みかけて慌てて下を向いた。地面を歩くアリを避けて歩いて行く。
先生への焦がれる気持ち、友達と遊びに行く楽しみ、日々を過ごす嬉しさ、一般の感覚、全部全部、知らなかった頃に戻りたい。そんなのは嘘で、ずっとこのままで居たいだけなのに。大事に大事に胸の中にしまい込んで、誰にも傷付けられないように、それを気持ちの拠り所にして、これからを生きていくしかない。
高専に入学する前から分かっていたことだ。仕方がないと諦めていた数年前と、今日の私を替えてやりたかった。
この場所をあとにしたら、扉を抜けて、あの石段を下って、鳥居をくぐったら。裾にはうちの運転手が待っていて、実家に帰って、顔も合わせたことのない許嫁と一緒になって、野球チームでも作るのかってくらいの子供をただただ産んで、…。束の間の夢だったって目を醒まさなきゃいけないんだ。
あとほんの少しした未来、五条先生が来たら。石段の一番上の段に腰を下ろしてスマホを開くと、数分前に『もうすぐ着くから待っててね』って五条先生からのメッセを最後にしたグルチャが表示された。画面右上の数字が変わっていくのだけをぼんやりと眺める。他の皆は、五条先生のことだし時間かかりそう、だなんて言って、教室に居るまんまだ。気を遣ってくれているのかもしれない。
私の気持ちはかなり明け透けで、決して言葉にしなくとも、先生の誕生日には甘いものをプレゼントして、ハロウィンだってクリスマスだってバレンタインだって、毎年毎年、何かしらを贈ってた。色んなイベントにかこつける癖に、重くならないように、形に残らないように、先生の舌には合わないかもなあなんて思いながら、とっておきに背伸びした甘いものを選んでた。
高専内で、私の気持ちを知らない人なんていないんじゃないだろうか。五条先生は気付いていないフリをしてくれていたのか、いつも『僕これ好きなんだよね』なんて言ってもらってくれてた。ウソかホントかは、知らない。
多分、みんな分かってる。私が情けないところを見せたくないことも、五条先生と一対一で話したかったことも。
ありがとう、と思いながら、先生を待ち続ける。最後にもう一度だけでいいから、目を見てお礼を言えたらいいな。ここにいたら、一番に会えないかな。でも一番最後に来てくれてもいいな、それだけ帰る時間が遅くなるし。……でも、その間にもっと恋しくなってしまうから、はやく、一番に、ここに来てほしい。私はもう、ここには居られないんだから。涙がこぼれそうになるのを唇を噛んで耐える。最後くらい、ちょっとだけでいいから、特別扱いをして。会いに来てほしい。一人で外にいるのが見えたからさって、何してるの、って、それでいいから。生徒としてで、いいから。
「」
目の前に現れたいつも通りのつま先に、降ってきた声に顔を上げた。優しい声に鼻の奥がツンとしてもうだめだと思ったのに、なんとか涙をこぼさずに済んだのは、先生が、真っ白いバラがたくさんの、大きな花束なんか持っていたからだ。頭の中に浮かんだのはプロポーズ。
そろりと視線を上げると、真っ黒いのに真っ白い五条先生に、花束は嫌ってくらい似合ってた。
「ごめんごめん、受け取るのにちょっと時間かかっちゃって。一人でここにいたの?」
……生徒の卒業式に、何をやってるんだ、この人は。…似合うけど、似合うけど。今からどこかの誰かにプロボーズでもしに行くのかな。わざわざ諦めさせてくれるとでも言うの? …そんなことしてくれなくたって別に、言うつもりなんて、無いのに。…それとも、私達に一輪ずつくれたりとか、するのかな。
黙っていたら、目の前にそれが差し出された。
「はい」
私は花と先生とを、分かりやすく交互に見る。はい、って、言われても。一輪抜いたらいいのか、それごと受け取っていいのか分からない。隙間もないほどひしめき合ってるバラを一本抜けって、結構難しいと思う。
困惑していると、先生が腰をかがめて、彷徨っていた私の手を引いた。引っ張られるままに立ち上がると、そのまま花束を握らされる。え、ひとつ?このまま?…もらっていいの?
「にだよ」
先生が花束を持っている手を離すから、どういう訳かは分からないけど、落とさないように胸に抱く。生徒の人数分、こんなに立派な花束を用意してたりするんだろうか。…ありえる。先生ならやりかねない。無限でどこからか引き寄せてポンッて出す、みたいな。先生ならできる。金銭的にも常識的にも、普通ありえないような気がするけど、先生が一般的なコトを上回って私の理解が及ばないのは――はっきり言うと訳が分からないのはよくあることだ。まあ、くれると言うのなら喜んでもらう。
一切の汚れも知らないような純白の花に顔を寄せ匂いを嗅ぐと、ふわりといい匂いが香った。
「ありがとうございます。嬉しいです」
お礼を言うと、微笑んだ先生がポケットから、何やら高級感のある小さな四角い箱を取り出してぱかりと開けた。…いよいよプロポーズするやつが出てきた。中にはキラリと、指輪が台座に収められ光っている。別段大きなダイヤがはめ込まれているとか、そういうわけじゃないのに、つくりのよさが滲み出てるっていうか、五条先生が持ってるからなのか、なんか、絶対にこれはやばい値段がするやつなんだろうな、と分かるようなものだ。先生に左手を取られた。
「え、え?」
「。僕のこと好きでしょ?結婚しようよ」
そしたら知らない男と結婚しなくて済むよ。長かったなぁ、卒業まで。僕がどれだけこの日を心待ちにしていたか……
およよ、といつものふざけた調子で泣き真似をしている五条先生に思考が止まった。左手を取られたまま、親指と人差し指で優しく薬指を撫でられているのを他人事のように感じている。…え、え?……え?
…相手を間違えているんじゃ、って、感想しか、出てこない。たしかに、そりゃあ、私が結婚するなんて話は、先生なら知っているのかもしれないけど。それこそ呪術界の頂点である五条家の当主様だし、家系の術師の事情なぞ、知り得ないことはないだろう。問題はそこではなくて。信じられないような気持ちで手が震えてくる。
「…ど、同情とか、そういうのなら。その」
先生が溜息を吐いた。五条先生優しいから、って付け足した。
「あのねえ」
五条先生は呆れたように目隠しをずりさげる。その青い目と目があって、心拍数が上がっていく。少し後ろめたいような気持ちのせいで、余計に。先生の目を真正面から見るのは入学式以来だ。何でも見透かされてしまいそうに感じる。…ホントは、同情でもいいって、思ってるの。そんなの本心じゃない、でも、願わくば。じっと先生の目を覗いて、真っ青な瞳に射抜かれて、もしも夢じゃないのなら、このまま攫って欲しい、と強く願った。
「いくら僕だって、好きじゃなきゃプロポーズしないよ」
いつもみたいに優しいテノールで名前を呼ばれて、とろけるような甘い目に見つめられて、好きって言葉に、どうしたら良いか分からなくなる。
指に優しく指輪を嵌められるのに、どきどきしたままの心臓が収まらなくて、胸がつまって言葉が出てこない。
先生は私の薬指に嵌まった指輪を眺めて、伏せている目を柔らかく細める。ふっと笑った先生の表情に、自分の指に指輪が嵌まっていることが、急に現実味を帯びて来る。今まで自由にされていた私の指に嵌まったそれはほんの少し窮屈に思えるのに、それが途方もなく愛しく感じられるなんて可笑しい。じんわりと体温と馴染みだした指輪の重さが、夢じゃないって教えてくれる。…このまま、攫って行ってくれるの? 私の指から視線を上げた先生と目が合うと、覗き込まれる。
「僕ものことが好きなんだけど、分かんない?」
顔が近づいてきて、思わず、待って、と声を上げた。まつげの先が触れ合うような距離で、まだお預け?悪いけどもう待てないよ、と先生が目を閉じる。僕と結婚してください、って。
僕だけの純白