夜風が気持ちいい。頬を撫でていく生ぬるいそれに、冬の気配を感じられなくなっても夏油は戻って来ない。もう春が来て、冬は終わっちゃったよ。私たち、卒業したんだよ。どうしてこうなっちゃったんだろうって何度考えたって迎えにも来てくれないね。こうして街を見下ろしていて、夏油がどこかにいるって信じられる強さがあったら良かった。
任務で呪詛師の息の根を止めたのは数時間前のできごとだ。別に珍しいことじゃない。随分と抵抗されたから、血まみれになった手のままに、赤と白のしましまの鉄塔、忍び込んで登って来た。白いところには私の赤い手形がべったりとついているだろうと思うと、掃除するくらいなら飛び降りた方がましだと頭の片隅で理性すら同意してくれる。暗い筈の街には赤、黄色、緑、紫、青、白、なんて眩しい色が元気いっぱいに点いている。嫌々言いながらも続けていく力は今日でぽっきり無くなってしまったのだ。
味わってみようと、しかと鉄筋を握りながら片足を一歩前へ踏み出して、宙へ浮かせる。心臓が踊るみたいに急かすから、ひとつ息を吐きだした。まだだよ。あとほんのちょっぴり後の未来だけ考えさせて。
純粋な好奇心。つまらない繰り返しの日々を、空っぽの日々で摩耗していく自分を、ほんの少しだけ取り返せたみたいな満足感。手を離して一歩駆け出したらそれはどのくらいになるだろう。きっと全て忘れられる。私も遠くに行ってみたい。
ここから一歩踏み出したら、上を向いて空を見る。星なんて見えなくても、高い塔のてっぺん、赤く明滅してるライトを一等星に見立てて、最後に誰の顔が浮かぶのか、噛み締めながらいくんだ。
勇気なんていらない。息を吸って、手を勢いよく離して、軸足で飛び上がった。
一歩、宙を駆けた私の体は即座に春の空気の中に落ちて行く。やんわりと受け止められているような気がするのに、驚くほどてっぺんから遠ざかるの、これじゃあ一生好きな人と会えないみたいだ。空は思ったより広かったらしい。手を伸ばしても掴めないまま急速落下が続いてく。
硝子、夏油、五条、先生、七海、灰原は先に待っててくれてるなあ。硝子とお出かけするの楽しかったな。先生の呪骸コレクションの完成結局見れなかったや。ていうか一生作り続けそうだから完成しなさそうだ。夏油は空を飛べる呪霊を持ってる癖にやっぱり迎えに来てくれないし、五条は忙しそうで最近全然話せてないなあ。五条と夏油、どちらの名前を呼んだらいいか最後まで分からないみたい。口がふたつあったらよかったのに。手が四本あったら救えたのかな。体が二つあったら夏油を追いかけられたのに。もう少し強くなって、二人を仲直りさせられたかもしれないのに。私に力があったら。こんな小さな手じゃなくて、赤く染まった手じゃなくて、五条みたいに純粋で、夏油みたいに真っ直ぐになれたら。
涙だけ空に溶けていって、最後に見える真っ赤なライトが自分の手の赤と重なって嫌になって、耳鳴りが止まらなくても必死で目を見開いていた。首から力を抜いて、死んでやるって、これで最後だからって、迎えに来てくれない夏油なんか知らないって、ぼろぼろ涙が止まらない。頭と背中を受け止められて、割と地面は柔らかいのだな、なんて、もういいかと目を閉じた。
「おかえり」
ぎゅうと体を拘束されて耳元に零された言葉に、私はまた目を見開かなきゃならなかった。よく見知った色の暗い服が視界を占領しているし、声で分かる。五条だ。
「…五条。一足先に死んじゃったの?」
「そんなワケなくない?駅ビルでスイーツ食べてたらの呪力が空に見えたから、あれ~?って目を凝らして飛んで来ちゃった」
抱き締められたまま彼の胸に涙が染み込んでいくのが悔しかった。彼の服にはべっとりと血がついているだろうことも、五条は分かっているだろうに気にする素振りもない。涙はじわじわいつまでも込みあがって来る。
「今ここで、あと一回だけ笑ってよ。そしたらもっかい飛んでも僕止めないよ。上まで送ってってもあげる」
「いらない。今日は諦める。五条が来てくれたから、いいよ」
「そ。じゃ家まで送ってあげる」
言うが早いか地面に降ろされて、五条が離れて行ったから辺りを見回した。私が腰を下ろしているのは自宅の玄関のようだ。いいなあ、無下限。それでも、彼の中でそれは良いものなのだろうか。いくら最強だからと言って、何度も誰かを救えなかったそれと生きていかなくちゃならないのは、私だってつらいのに。あの時夏油を救えなかったのを一番後悔してるのは五条の筈なのに。五条はしゃがんで私の靴を脱がせながら言葉を続ける。
「術師はもうやめな。お前弱いし、次に自殺しようとする前に呪霊の餌になっちゃうよ」
何で五条悟が私の靴を脱がせているんだろう。へんなの。厳しい言葉なのに、私の身を案じてくれていることがひしひしと伝わってくるのも、へんなの。涙が落ちて行く。
「……傑に来てほしかった?」
私の膝に両手を乗せて、私を見上げて言う五条が小さく見えた。五条の目隠しを取り払うと、髪がさらりと重力に従って落ちる。小さく首を振って髪を整える五条の手を上から握った。来てくれたことが嬉しくて、死なせてくれなかったのが恨めしくて、五条と今、話せていることが嬉しくて、何て言ったらいいかなんて分からない。二人してずっと見つめ合って、どうしたらいいか分からないまま私ひとりずっと泣き続けてる。ただ、ずっとこうやっていたい。もっとくっついて、生きてるって確かめさせて。五条が今ここにいるって教えて欲しい。私は立ち上がって五条の片手を引いた。五条が靴を脱いで上がってきた。名前を呼んで、彼を壁に押し付けて、胸に縋り付いて泣きじゃくる。背中を抱かれて頬を掬われて、近づいて来た顔に、背伸びをして目を閉じた。さっきの一歩よりも自然に出来たことに、五条の手にひどく落ち着いてしまうことに、ぬくもりを直に感じながら泣き続ける。いつまで一緒に居てくれるんだろう。夜明けはどこにあるんだろう。正気に戻っても、五条が隣に居てくれるなら、もう少し生き続けてみてもいい。夏油がどこにもいなくても、一生笑ってくれなくても、呪霊を祓って、祓って祓って、五条だけでも笑ってくれるなら。
「…でも、五条は、私が死んじゃっても生きていけそうだね」
諦めにも似た感情だった。言葉に出してからしまったとは思った。五条の纏う空気が凍えるようになったし、彼は分かりやすく眉を顰め、不愉快だと言わんばかりに口を引き結んだから。そのまま手首を掴まれて乱暴に手を洗わされ、面倒くさそうに服のボタンを引き千切っては剥がれてく。私の左胸の心臓を彼は人差し指で触れた。
「ホントにそうなら、助けてないよ。ここにあるコレが止まるより、俺の隣で動いてて欲しいからだったんだけど。ずっと僕のところに帰って来てよ。もうどのぐらい見てないかな、お前の笑ってる顔が僕ずっと見たいの」
空中分解