もうすぐ今日が終わる。まだ荷解きもしていない段ボールだらけのアパートの一室、静寂に包まれたこの部屋には時計の秒針の音だけが響いている。奮発して2LDKにした甲斐があるのかそうでないのかは分からないけど、高専と違って随分壁が分厚いようだ。両隣の同級生が暴れている音だとか、廊下から聞こえる賑やかな話し声だとか、そういうものを思い出して、うまく言えないような気持ちで胸が詰まってきてしまう。

 今日を、終えたら。私は別の世界で生きていくのだ。何の関係もない普通の大学に編入して、それから。先生のことを好きでいるのはやめて、誰か別の、普通の人を好きになって、平凡に生きていくのだ。

『好きです、先生』って告白したあの日が随分と懐かしい。先生はいつもの調子で、『え~!?僕生徒は対象外なんだよね~ごめんね~』って言った。まあ、そうだろうな、って思った。年齢もそうなら、立場も違いすぎる。先生と生徒っていうだけじゃなくて、この世界を担う先生と、誰にでも代えられる私とじゃ。それでも、好きって言わなきゃいつか後悔すると思ったから。身勝手に思いを告げた私を許してくれた先生は、ちゃらんぽらんなところはあってもやっぱり優しい人だ。
 姿が見えれば嬉しくて、声が聞こえたら直ぐに分かって、心臓がどきどきし始める。決して叶わないこの恋を諦めようと毎日を過ごしてきた。そんな大切な最後の日なのに。先生は急な任務だって、顔を合わすことが出来ず終いだ。まあ、そういうことも多々ある。呪いは待ってはくれないのだから。
 でも、もう、きっと一生会えない。姿を見ることも、声を聞くことも、先生の頭のほんの片隅に住んでいることすらもできなくて、ずっとずっと薄れて、忘れられていくだけ。先生は随分距離が近い人だったから、みんなにお土産、っておいしいお菓子を買ってきてくれたりもしたし、私がおすすめしたお菓子屋さんのどれ食べたんだけど、なんて話をしてくれることもあった。その度に、ほんの少しでも思い出してくれていたんだ、と勝手に嬉しくなっていた。なんの気もない、他愛のないやりとりだと理解している。でも、もう、そんなやりとりも出来ない。姿を見ることも、声を聞くことも、思い出してもらうことも。じわじわ視界が滲み始めて、思わず苦笑が漏れる。
 今日、会えなかったことは寧ろ幸運だったのかもしれない。先生を一目でも見たら、きっとその場で泣いてしまっただろう。

 電気を消して布団にもぐり込む。先生、すき。ずっとずっと大好き。こんな思い、忘れたい。無かったことにして、明日からを生きていく。きっといつか諦められる。きっと。先生なんか忘れてやる。自分に言い聞かせながら目を閉じた。


**


「伊地知ぃ~。戻ってくんの遅すぎ。あの子たち卒業しちゃったじゃん。マジふざけんなよ」
「そ、それは申し訳ありませんが、五条さんの出張に関しては私に言われましても……」
「ハァ~?伊地知の癖に口答えしていいとでも思ってんの?ホントさぁ~術師ってそういうトコあるって言ってもさぁ~卒業式だよ?卒業式」

 ハァ~~と口から割とマジめのため息が漏れた。伊地知は持ち帰って来たケーキの箱を机の上に乗せて開けてくれた。やるじゃん伊地知。でもゼエゼエしてんの見てて暑苦しいからマイナス5点。術師なら…ってお前は補助監督だけど、高専の石段くらい全力疾走だろうが息切らさず登ってこれる体力付けなきゃ。僕は袋の中からプラスチックの安っぽいフォークを手に取って開ける。
 たちが卒業していったのは結構前の話で、もうみんな各々の新生活に馴染んでいる頃だろうに、僕だけさよならが出来なかったせいで地味に引き摺っている。マジでひどくない?記念すべき青春の最後の一ページに担当教師がいないって何。まあね?親友とか?片思いの相手とか?居れば?担任の先生くらい居なくたって? ふん。
 は元気にしてるかな。呪いが怖くてピーピー泣いてないかな。泣いてればいいのに。先生助けてって泣いて帰って来ちゃえよ。でもあの子に限らずみんな、最後は大分強くなったなあ。術師になったあいつも補助監督を選んだそいつも彼らなりには頑張ったと思う。褒めてやったら喜んだっけねえ。にも会いたいな。パンピーになっちゃったあの子。会うにも口実が必要だ。口実?会いたいなら会いにいけばよくない?つか会いたいって何だよ。会いたいもんは会いたいんだようるせえ黙れ。

「ヒイッ」

 何もしていないのに、伊地知が引き攣った声を上げて慄いた。まあ確かに?舌打ちは出ちゃったし目は合っちゃったけど?そこまで驚かなくてもいいだろ。取って食やしねえよ。

「な、何か間違ってましたでしょうか……!?」
「何が?別に何も間違ってないけど」

 何でこんなんでイラついてんの、生徒の卒業式に立ち会えなかったくらいで。最後に顔見れなかったくらいで。初めてじゃない?ウケる。
 ……イヤ、マジで勘弁して。嘘だろ?相手、教え子よ?告白されたからって僕チョロすぎない? 教えてくれたケーキ屋、僕あれがお気に入り、おいしかったよ、って話した時に、はにかんでくれた顔が脳裏にこびりついて離れない。あの子はもう僕なんて忘れて新しい環境で夢のキャンパスライフ♥で見つけた同級生と健全な青春♥らしくカレカノになってよろしくやってんだろうに。

「相手の男、僕許せるかな……」
「はあ?」

 ちゃんと注文通りのケーキのフィルムをくるくる剥がして、ブスリと下品にフォークを突き刺して大口開けて齧る。ん~、おいしい。花の香りもケーキの味も変わらないのにあなたの気持ちは変わってしまったのでしょうか。作ってる人は違うからね、変わってるかもしれないね。僕ってこんなネガティブだったっけ? もう一口。もぐもぐ。
 微妙なムカつきをぶつけるように食べているのは勿論あの子が教えてくれた店のケーキだ。今日はいつもの僕のお気に入りじゃなくて、あの子が好きって言ってたやつ。間違わずに買ってきた伊地知はホント良くやってるよ。でもあまりのイラつきのあまりあと一口で食べ終わっちゃうのは想定外だった。あと五個は買ってきてもらうべきだったな。最後の一口を口に含めば、もうそこにはケーキがあった跡形もなくなってしまう。もぐ。

「では、その、私は本日はこれにて。五条さん、明日の任務もよろしくお願いしますね。それと、こちらは私からです」

 一息に言い切って、伊地知はもう一つ見覚えのある紙袋を机の上に置くと出て行く。気、遣ってんだろうな。伊地知の癖に頑張ってんな。他人事のように眺めていた。バタンと扉が閉まる音を聞きながら、すべてが面倒で紙袋を超適当に破って開けた。中には僕が以前に買ってこさせたことのある焼き菓子が数個入っている。確かに、この店は近くにあったっけ。伊地知よく覚えてんじゃん。ムカつく。と僕の思い出に介入してくんな。

 菓子は次々と僕の口に放り込まれ、無残な音を立てては消えていく。僕が名前を呼ぶと、嬉しそうに振り返ってくれる。そんなを思い出すような、甘い味が広がっていった。


**


 こんなものなのだな、というような冷めた気持ちと、こんなものだったっけ、って困惑が大半を占めていた。勉強は大変だけれど、これと言って何もない、とても平和な日々。今日も一日、講義を乗り切って夕方。やっと辿り着いたアパート、郵便受けを漁って、はい今日もチラシだけ。だらだら階段を上っていく。
 毎日が安定している、すこぶる平和で平穏で、命のやり取りが発生しない――という点に関しては大変ありがたいという一言に尽きる。勉強もどうにかなってて単位も取れてるし問題はない。…じゃあ何でこんなに気分が浮かないのかって、それはひとえに当たり障りのない人間関係のせいだ。だって、親しい友人なんか出来そうにないし、好きになれそうな人もいない。誰を見ても五条先生と比べてしまってしょうがない。もう何ヵ月経ったっていうんだろう。先生と比べるのはダメだって分かってるのに。先生は全体的に規格外だし。顔がカッコよすぎるし。強くて余裕たっぷりだし。褒める時は優しく微笑んでくれるの。呼びかけると、なぁに?って身を丸めてくれて、一緒に歩く時はそれとなく歩幅を合わせてくれて、……困ったな、いつまで経っても忘れられそうにない。
 下を向いたまま階段を上りきって、大きく溜息をつく。一歩、また一歩と踏み出して、どんどん変わっていくような気がしてくる。変わってしまえ。高専を卒業する前より、知らないことを知った。出来ないことが出来るようになった。一般人に戻った。確かに私は変わっている筈なのに。どうしてこんなに先生が好きって気持ちだけ消えてくれないんだろう。どうして薄れてくれないの。
 惨めな気持ちでポケットに手を突っ込む。鍵を指にひっかけたところで、私の部屋の前に居る人に気が付いた。

「や、。元気そうだね」

 見間違えるわけはない。こんな高い身長の人なんか一人しか知らないし、ふざけた目隠しも、街灯がきらきら反射している白髪も、何一つ変わってない。――五条先生だ。
 身一つで、さも通りがかったから寄ってみました、みたいな軽さで、先生は首を傾げてひらひらと手を振る。「オーイ。聞いてる?」先生が距離を詰めて来て、足音のしない歩みに懐かしさを覚えて心臓がきゅうっとなる。本当に先生なんだ。

、」

 先生は大げさに屈んで、下から私を見上げるように覗き込んでいる。思わず仰け反り気味に足を引いた私の背中に先生の手が触れた。それから目隠しに指がひっかけられて、ゆっくりとずり下げられる。――先生だ。冴え渡った空みたいな目、変わってない。一気に自分の顔が熱くなっていくのを感じる。だって殺傷能力が高い。俗にいう上目遣いってやつ……。先生のぱっちりした目が私を一心に覗き込んでいる。先生に聞こえちゃうんじゃってくらい心臓がばくばくうるさくてたまらないのに、青い目に吸い込まれるみたいに、目が反らせない。これまでにない至近距離でじっと見つめられて、どうしようもなくなっているのだ。誰か助けて欲しい。
 じっと見つめ合ってしばらくしただろうか、先生は目を逸らして照れたように笑ってから、ねえ、とまた私を真っ直ぐに見て問いかける。

「僕を好きって言ってくれた気持ち、変わっちゃった?」

 先生は口元を楽しそうに歪めて言った。…絶対、分かってる顔な気がする。五条先生は、優しいけど、性格がよろしくないところがあるので、油断してはならない。人をからかって遊ぶのは先生の趣味だ。生き様だ。私は精一杯ツンケンした風に威嚇しながら口を開く。

「か、からかいに、来たんですか……」

 全然勢いなんかなかったし、声も掠れてしまった。恥ずかしい。っふ、って耐えられないみたいに、先生が微笑む。その顔がまたかっこよくて私はもう顔ごと逸らした。久しぶりの先生は刺激が強すぎる。今の私は限界を超えた家電みたいになってるに違いない。思考回路はショート寸前だ。先生はお構いなしというように変わらないマイペースさで、穏やかに笑っている。

「もう観念するよ。あのね、僕、君が好きみたい」

 真っ直ぐ向き直らされて、更に先生は私の背中に回していた手に力を込めた。先生の靴に、こつんと自分の靴先が当たる。

「一目会えたら、収まるかなと思ったんだけど。そうじゃなかったみたい」

「それで、は?もう僕のこと嫌いになっちゃった?」

「…聞いてる?」

 抱き締められてるって気付いたのは、じんわり体温が伝わって来てからだ。待って、全然分かんない。思考が完結しない。私、先生に領域展開されてるんだろうか。いい匂いするし、引き締まった筋肉っていうのか、逞しいっていうのか、男の人の体っていうのか、とにかく情報が完結しない。多分、無量空処ってこんな感じなんじゃないか。
 呆けていると、顔をぐいって掴まれて真っ直ぐ上を向かされた。首が痛い。困ったような顔の先生と目が合うと、先生が目を瞑って顔がそのまま下りてきて、唇に柔らかいものが触れ、た。
 ちゅ、とした音を出して離れた唇。先生はあざとく首を傾げながら私の頬を親指で撫でる。

「とりあえず、入れてくれるね?」



 何か飲みますか、なんて聞いた私に、今はいいから、早くこっちに来て、なんて我が物顔でうちのソファに座った先生が隣をぽんぽんしてきたから、……座ったが最後だった。さっきとは違って、私の顔を両手で優しく包んだ先生が私の目を覗き込んできて、なんか、ありえないくらい愛を囁かれた。確かに、自分の意思で、鍵を開けたとはいえ。

 なんでもっと早く気付かなかったんだろうとは思うけど、生徒が対象外なのはホントだよ、君が特別だっただけで。
 こんなに執着してたのに、何で気付かなかったんだろうねえ。
 僕、君が卒業しちゃってから気付いたの、笑えるよね。
 もう会えないって分かったら会いたくなっちゃった。
 認めるの大変だったよ、自分のプライドへし折られた気分っていうの?
 まあなんでもいいけどね。今こうやって会えたら全部どうでも良くなっちゃったよ。
 ねえ、僕の気持ち分かってくれた?え、分かんない?じゃあ分からせてあげなきゃね。先にシャワー入ってきなよ。

 最後の方なんて、おでこまでくっつけられてしまって、私はもうどうしたらいいか分からなかった。だから頷いてしまった。無量空処状態のまま思考を放棄してシャワーを浴びて、出たら先生が入っていって、ああ高専に帰るから入ったんだよね、確かに高専隙間風ひどいし、お風呂だってうちの方が断然設備がいいから貸してあげよう、なんて必死に自分を騙しながらソファで丸まって固まっていたのに、出て来た先生は一言。「じゃ、ベッド行こっか」急展開な現実に混乱する間もなく、水も滴る良い男状態の先生に抱き上げられて、寝室へ直行されている。なんで部屋どこか分かるの?六眼だから……?

「せ、せんせい」
「もう先生じゃないよ」

 さっきからずっと顔真っ赤にして、バレバレだよ?からも聞かせて。僕のこと、好きだって。
 優しくベッドに降ろされると、押し倒されて囁かれ、目が回る。五条先生がこんなに甘いなんて聞いてない。

「好きだよ、。もうどこにも行かないでね」

淡し春を溶かすこと