狼とねこずきん  ある日退勤してさあ帰ろうと車に乗り込もうとした時、車の下から真っ黒な猫が出てきた。

「っねこ、え、本物!?ってわ、ちょ、」

 猫はぴょんと跳ねて、私が空けた運転席のドアから中に入ってしまって、後ろの座席で上体を屈めてこちらを窺っていた。
 どうしよう、私、人間の犬の扱い方しか知らない。……言い方が悪かったかもしれない。違うの、違うはずなの、でもたまに皆、可愛らしい耳としっぽが付いてるように見えて…。
 兎にも角にも、猫の手懐け方も知らないし、扱い方も分からない。宜野座くんに連絡してみようかな。いやでも何かの罠とか、そういう類だったらどうしよう。怖がられるかもしれないけど、とりあえずスキャンしよう。ごめんね、と言いながらデバイスで猫をスキャンする。危険物ではないと項目がクリアされていってほっとする。しかしあるまじき結果が出た。狡噛慎也。端末はこの猫を狡噛慎也と指し示している。……なに?見間違いかな、バグかな。おかしい。

 とりあえずもう一度スキャンしてみるが、私が攻撃する意図がないと分かったのかなんなのか、猫は胸を張って座りなおして、非常にお利口にドヤ顔をしている。あ、蝶ネクタイ結んであげたい。青か赤、あ、慎也くんのネクタイみたいなチェックもいいかも。……確かに、慎也くんにそこはかとなく似てはいるけど。
 再度結果を見てみるも、そこには彼のIDまで一文字違わず、ばっちり記されていた。…これは宜野座くんではなくて唐之杜行きの方がいいかもしれない。どうしよう。いや、とりあえず慎也くんに連絡してみるべきだ。猫は危険物ではなさそうだし、ホログラムでもなさそうだし、うだうだしていたら、隣の車の人が退勤してきた。あわあわしつつも邪魔になってしまうので、外寒いし、とりあえず私も車内に入って扉を閉めると、猫が助手席に移ってきた。

 賢い子だなあ、とりあえずこの子にも私を攻撃する意図はおそらく無いんだと思う。デバイスを開いて慎也くんにコールしてみるけど、繋がらない。一度切って再度かけなおしたら、隣に居た猫がおず、と真っ黒なおててを、デバイスを開いている私の腕に置いて、私の目を見て、「ぐるにゃーん…」と鳴いた。

「ごめん、私ネコ語わかんない、どうしよう…。迷子なの?」
「なー」

 ううん、多分イェスじゃないことだけは分かる。どうしよう、慎也くんはコールを取ってくれないし、宜野座くんは今日宿直のはずだし、唐之杜に連絡して変な騒ぎになってもあれだし、真流さんもありえないし、佐々山にはからかわれそうだし、和久さんに相談するほど困った状況ではないし、ううん。

「にゃー…」
「分かった。とりあえず帰ろう、帰るね、いい、大丈夫?うちくるでいい?」
「にゃーん!」

 多分いいらしい。よし分かった、とりあえず帰ろう。慎也くんはコールを取ってくれないし、このネコちゃんの俺に構えよ、という気配を凄く感じた。慎也くんは人間だから多分ほっといても死なないと思う。刑事課も今日は大きな事件は無かったし、あ、けど慎也くん一回出動してたな。でもそのあと顔あわせたし。退勤してるはずなんだけど、うたた寝でもしてるのかな。とにかく家に帰れば全部分かる。デバイスはスキャン以外正常に使えてるし、とりあえず明日修理に出して、スペアをもらおう。

 シートベルトを付けて、オートナビで車を発進させたけど、猫ってシートベルト必須なんだろうかどうなんだろうか。でもキャリーケース持ってないしなあ…。



 結果として、猫ちゃんは非常にお行儀がよかったけど、助手席から退かない感じだったので、シートベルトを付けさせてもらった。微妙な顔してそれを受け入れてくれたので、本当に猫なのか、という疑いはちょっと濃厚になってきた。よく分からない。家に帰ればわかることもきっとある!
 猫ちゃんを抱えて車を降りて、家の扉を開けて、慎也くんがいることを期待する私は、玄関の電気を付けて結構な声で呼びかけてみる。…ほら、寝てるのかもしれない。真っ暗だからって決めつけてはいけない。

「慎也くーん?」

 …まあ、なんていうかもう、人の気配がしない。でも私の腕の中からとんっといい音で降りた猫ちゃんが、「ぐるにゃーん」と鳴いた。「……慎也くん?」「ぐるにゃーん」「…慎也くん」「ぐるにゃーん」「慎也くん」「ぐるにゃーん!」「宜野座くん」「なー」「…慎也くん」「ぐるにゃーん!」……なんか、名前、気に入ったの?いや、本当に慎也くんという可能性がある?いや、ないでしょ……そんな人知を超えた、科学を超えたこと、この街で起きる?でも何か言葉は伝わっている気がしてならない。多分それは気のせいではない。

「どうしよう、混ざる…慎也くん、あのね、慎也くんっていうのはね、私の恋人の名前でね」
「ぐるにゃーん!」
「いや、あの、その……」

 猫がすり、と私の膝に頭をこすりつけた。もふっとした。かわいい。とりあえず靴を脱ごうと靴に手をかけたら、慎也くんの靴がまずないことに気が付いた。…人間の方の。ちょっと心配にはなってきた。やっぱり宜野座くんあたりに聞いてみようか。

 玄関に上がってコートをかけて、扉を開けたら、猫がタタタと前を行った。しっぽが上がっていて可愛い。デバイスを開いて宜野座くんに通信を繋げる。キッチンに立って少し多めにお湯を沸かしていると、またも猫がすり、と私の足に寄ってきて、もふっとした。可愛い。でもめちゃめちゃ頭を押し付けてきている。主張が激しい。

「――もしもし、いきなりごめん宜野座くん、慎也くん今どこに居るか聞いてない?」
『コウのやつ帰ってないんですか?』
「分からない、でも靴が無くて。いつも買い物でもジムでも連絡は入れてくれるからちょっと心配で…」
『…さんが知らないのに俺が知ってるわけないですよ。ああでも、退勤前に分析室に行くのは見ました。電話回しましょうか』
「ありがとう、ごめん」

 あまりにもぐりぐり頭を押し付けてくるので視線を落として様子を見ると、その口には私がいつも飲むティーバッグが咥えられていた。いつの間にかそれが入っていただろう左手の棚は開け放たれている。……待って。

「…慎也くん?」
「ぐるにゃーん!!」
『――あぁ!よかったさん、彼そこにいるのね!彼、猫になっちゃったのよ』
「…………待って?」

 保留音が切り替わったと思ったら、色気のある声があるまじきことを言ってくれた。逃げ出しちゃってね~困ったもんよ、とか、回収してくれてて助かったわぁみたいなことを言っているのが右から左に流れて行った。言葉は耳が拾い上げたけど理解するのに時間を要している。ちょっと待って。

「唐之杜、待って……」
『頭の整理が出来たら教えてちょうだい』

 とうの昔に沸いていたお湯をマグカップに入れて、小さな小鉢にも入れて冷ましておく。しゃがみこんで手を差し出してみたら、慎也くん猫が口を開いてティーバッグをくれたので、それをカップに入れてちょっと現実逃避したくなった。私の愛する恋人が猫になってしまったようです。



 唐之杜の説明によると、慎也くんは今日の出動で謎の薬品を少し浴びてしまったらしく、何かその影響らしい。まあ明日には効果も切れるわよ、と適当な感じで、だから心配ないわ、と言っていた。心配ないわ。……心配ないわ…?
 ひと肌になっただろうお湯の小鉢を床に降ろしたら、慎也くんがぴちゃぴちゃ飲んでいる。外は寒いから、温かい方がいいだろうと思ったけど、よく飲んでくれてありがたい、ってありがたい?ありがたい?
 とにかくそのあと、“あぁごめんなさい言葉が足りなかったわ、その合成ドラッグ、結構簡単に作れるし手に入る部類のものでね。副作用や害もそんなにないからたまに出回ってるのよ。みんな翌日には元に戻ってるわ。けど、一応二人とも明日は休みにしてもらうよう上に申請しとくわね”と詳細な事を教えてくれたので少し安堵した。じゃ、楽しんでね~と通信が切れて、一体何を楽しめというのか、もふもふ感?…ねえホントに慎也くんなの?

 口を付けないままにすっかり冷めたマグカップからティーバッグを取り出して一口飲むけどやっぱり冷えてた。ダメだ、慎也くん、私ちょっと混乱してる。よく分かってないです。

「…慎也くん、何で猫になっちゃったの」
「にゃーうー」
「ううん……」

 伝わるわけないな、というシンパシーだけは双方得た。さっき唐之杜から聞いただろ、みたいなことが、彼が口が聞けたら降ってきそうでもある。
 呆然としたままカップを持っていってソファに座ると、何故か彼が私の膝の上を陣取ってきた。暖かいけど、もふもふだけど、いや……。嬉しいけど…や、でも猫だよ、でも慎也くんだよ、猫が慎也くんで慎也くんが猫だよ。
 しかしごろごろと鳴りだした喉にきゅん死にした私はめろめろになってしまったので撫でくり回して頬をこすりつけた。嬉しいという心からの表現がこんなに可愛いものだとは!死語の嵐?やめて!嬉しそうに閉じられた目、ぐりぐりなすり付けられる頭、私の腕をロックするぷにぷにの肉球がついたおっきな足。全部可愛くてぎゅうぎゅう抱きしめる。ネコちゃんはお餅みたいなところがあるので、怪我とかも気にする必要がなくてとてもいい。

 慎也くんと、宜野座くん家のダイムを見に行ったときに気が付いたけど、イヌちゃんって意外と、撫でて!としっぽを振っても、いざ撫でるとしっぽが止まるんだよね。その点、ネコちゃんは嬉しい時にずっと喉を鳴らしているから凄く癒し、とにかく癒し、可愛い。もふもふ。唐之杜楽しめっていってたしもう楽しんでしまおう。明日になって戻って無かったら泣こう、それからでも遅くは無い。そうだ、慎也くんも可愛いしネコちゃんも可愛い!ダブル可愛い!二乗だ!洗脳が完了しました!



 ソファで慎也くんを膝に乗せてゆったりしていたら、しばらくして彼が大あくびをして、凄まじい犬歯を見た。すごい、噛まれたら穴空きそう。ちょっと怖かった。そんな彼は私のシャツの内側に入ってこようとぐりぐり隙間を広げていて、いやちょっと無茶でしょ、頭の大きさ考えた方がいい、し、これ中身、慎也くんだ!

「こら!やーめーて」

 彼を退かして時計を見れば、結構いい時間になっていたので、シャワーに入って寝ようと私も立ち上がると、どこ行くの、という感じに彼は私の顔を見上げていた。うっ可愛い。歩き出せば並走して、しっぽが私の足にまきついてきた。~~っ可愛い!
 しかし、脱衣所まで入ってきた慎也くんを追い出したら、分かりやすく青色の目がつりあがって面白かった。普段、彼の瞳は灰色だけど、ネコにグレーの光彩って聞いたことがないし、角度によって彼の瞳は不思議に青色に見える時があって、だから青色に適用したのかもしれない。黒に青色ってなかなか珍しい組み合わせでよく目立って、きらきらの宝石がついてるみたい。

 シャワーを上がって脱衣所の扉を開けたら、慎也くんがふてくされた顔でしっぽを左右にぶんぶん降りながら座り込んでいた。待っていたのかもしれない。猫なのに忠犬のような。ネコ公。や、違うか…。

「私、寝るけど、慎也くんはどうする?」
「にゃーん」

 それがイェスなことだけは分かったけど、全く分からない。質問の仕方が悪かったんだ、そうだ。ネコちゃんは悪くない。慎也くんだけど。

「ソファで寝れる?」
「なー」
「…一緒に寝るの?」
「にゃーん」

 まあいいか、と寝室の扉を開けたら、彼は身軽に駆け抜けて行ってぼすんと布団の上に埋まった。まあるい。…でも唐之杜の話だと、朝になったら戻ってるはずなんだよね。このもふもふが朝になったら失われる…?普段の筋肉質な彼に戻ってしまう…?あっどっちも捨て難い、でも今日は、今日だけはこのもふもふを堪能していたい。私の完全敗北だ。多分この合成ドラッグは、周りの人間をダメにする薬に違いない。

「慎也くん、一緒にお布団の中で寝てほしいなあ」

 ん、とも、にゃん、とも言わず、のっそり起き上がった彼は早く布団を開けろ、と言わんばかりに私の傍に来た。可愛い。抱っこして撫で回して布団の中に居れると、少しふらふらした彼が私を待っていた。私も布団に入って腕を広げたら、そこにおててをちょこんと揃えて乗せて、私の頬をざり、と舐めた。頬をすりつけたら、もふもふだし、彼が頭をすりつけ返してくれるのが嬉しくて、彼のごろごろ音を子守唄に私は幸せな夢に落ちて行った。



 意識が浮上して目を開けると、そこには端正な男性の顔があった。わ、なんか人間が居る、ちょっと待って、猫じゃない、慎也くんが居ない。

「慎也くん、慎也くんがいない」
「……まだ寝ぼけてるのか。起きろ、おはよう、あれは俺だ」
「……慎也くん?」
「ああ」
「…ぐるにゃーんが聞こえない」
「お前な……」

 彼の腕枕に頭をこすりつけても彼の腕は私に頭をこすり返してくれない。何を言っているのか分からなくなってきた。宿直で会えない時だってあるのに何故か顔を合わせているのが久しぶりに思えて、彼が言った通りまだ夢のような感じだし、何が言いたいかというととにかく心臓に悪い。ネコちゃんはあんなに可愛かったのにいきなりかっこよさをプラスされても困る。成長期!?そんなわけあるか、彼はもともと人間だった!「落ち着け」くしゃりと頭を撫でられて、ついついぐりぐり頭を押し付け返してしまった。

の方が猫みたいだな」
「っ慎也くんのが可愛いしかっこいいよ!」

 はあ、と息を吐いてジト目で私を見てくる彼は分かりやすく照れている、顔が赤い。ああ、猫の彼も写真とっておけばよかった。私はバカだ、永久保存するべきだったのに。このジト目もいつか写真に収めたい。私は慎也くんの顔の造形に滅法弱いのでダメである。それにしても今度唐之杜か真流さんにあの薬どうやって作るのか聞いてみたい、教えてくれないだろうか。いや、でも。彼の輪郭に手を伸ばして触ってみるが、いつも通り、に思えるけど。

「……慎也くん、身体なんともない?大丈夫?」
「…これと言って異常はないんだが、」

 目を逸らした彼はそう言って私のその手を取って布団の中へ入れて、さわ、ともふもふな何かを触らせた。なに、どういうことだ。どういうことなんだ!もしかしてもう少し早く起きたら耳も付いていたんじゃないのか、こんなことがあっていいの!?そりゃこのドラッグは廃れないよ、多分市場から消え去ることは無いと思う。
 それを引き寄せてさわさわ触ってみる、見えはしないけど素晴らしい手触りだ、もふもふだ。どうやって生えてるのか気になって、手を伸ばして付け根の方まで弄って、きゅ、としっぽを握ってみたら慎也くんが頭上で呻いた。…なんかいやらしい声だった。待って。っていうか感触からして、慎也くんもしかしなくても下も履いてない?上を着ないで寝るのはいつも通りだから全然気にしていなかったんだけど、いやでもよくよく考えたらいやあのその待って。
 固まっていたら彼が布団を少し降ろして、目視できるようになった昨日通りの真っ黒いしっぽは、先っぽで私の顔をちろりと撫でている。顔を上げたら、治らないんだ、と顔を赤くしている彼は不機嫌そうだが何か熱い息を吐いていた。嫌な予感がする。そういえば唐之杜は副作用がそんなに無いと言っていたんであって、全くないとは言っていなかった気がするし、私も彼も今日は休みだ、彼女の計らいで。待って、いや、そんなまさか。

「悪い、そういう副作用らしい」

 私の前髪をかきあげて、余裕がなさそうな顔で、けれど額を合わせて「いいか」と聞く彼に目が回った。全然よくないし、意味がわからないし、解毒薬はないのかとか、いやでもそんな風に上から薬を飲ませるくらいなら…、って痛ったあ!首噛まれた、慎也くん本当に噛むの好きだな…「駄目だ、もう我慢できない」私の上に覆いかぶさってそう言った彼の犬歯はいつもよりずっと長かった、まだ完全に戻っていないんだ。なのに耳はフェードアウトしてるなんて、悲しい。私の唇を舐める彼は、さっきも照れていたのもそうでも、我慢してくれていたんだろう、とか、寝ている私を無理矢理起こさなかったこと、とか、…彼は優しい。今も私の胸を服の上から弄っていれどボタンを開けない。頼む、と小さな声で落とした彼は待っている。…全然ネコちゃんみたいじゃないし、これじゃ猫の皮を被った犬科じゃないか。…しょうがない。

「…今の慎也くんはネコじゃなくて狼さんみたい」

 彼の首に腕を回して口付けて許可を出す。狼には食べられるのがセオリーだ。