天国と地獄
地方で凶悪な事件が発生し、呼び出された。少数編成として、さんと佐々山で機動前衛、俺ととっつぁんでオールラウンダー知識型後衛。アタッカーの佐々山を完璧にコントロールしたさんのおかげで、事件は見事解決した。
して、夜も遅いし明日帰ろう、と満場一致、もう一泊することになったのだ。
手配されている宿泊施設は、随分と旧時代的な建物で、扉のロックはカードキー。“アナログ”という表現がしっくりくるような感じだ。
部屋の中も、不潔ではないが、都内のように清潔なわけでも無く。まあ、差支えはない。
シャワーを浴びてバスローブに着替え、珍しい筐体のテレビをつけ、うつらうつら寛ぎ、寝落ちする。悪くない感じだ。
しかし、事件は起こった。
突如、わあああああああという悲鳴で意識が浮上し、ドタバタドンガラガッシャンから始まった騒々しい音はガチャガチャとなったと思ったらドンドンドンと俺の部屋をノックしている。
声の主は分かってるので、何があったんだ、と起き抜けの頭で急いで扉を開けに行く。隣の部屋を手配されているさんだ。
「狡噛くん、狡噛くん、起きてる?! ごめん、ごめん開けて!」
「さん、どうしたんですかそんなに慌てて、ってうわ、」
扉を開ければそこには、上気した頬に備え付けのバスローブ一枚で涙目になって俺を上目遣いで見上げて震えている彼女がいた。情報量が多い。そんな彼女が俺のローブの裾を少し引いて、おねがい、きて、と意味の分からない事を言った。
「っどこに、」
「わたしの部屋!」
「……は?」
いかん。突然の悲鳴で起こされた頭には煩悩が多すぎる。如何せん視界情報が過剰に殴りつけてくるもんだから堪ったもんじゃない。
とりあえずカードキーをポケットに入れスリッパに足を突っ込むと、彼女は俺の腕を引いてくるりと前を向き、髪からはシャンプーの香りが漂ってきた。まずい。意味が分からない。
促されるままついて行き、…といってもさんは隣の部屋の前で立ち止まった。それから彼女は俺を振り返り、目線を彷徨わせている。が、…彼女の顔は赤いままで、何か変な勘違いをしてしまいそうになる。…しかし、顔色というか、表情は凄まじく暗い。捜査中にでもこんな表情は一度たりとも見たことがなかった。一体何があったというんだ。
「狡噛くん、あのね、あの…黒い悪魔が…その…」
「はい?」
「や、あの…、廃棄区画によくいるあの、あれが…」
明言を避けたさんは目を逸らし、俺の背後へ回ってくっついてきた。…いや、なにか、縋るという方が正しいかもしれない。彼女の頭と肘が背中についているのを感じる。まずい。色々と。
…にしたって一体何があったというのか。俺は現在進行中であんたのせいで脳内が緊急事態なんだが。
キーワードを拾おう。黒い悪魔、廃棄区画、彼女が怖がるもの?そんなものあったか?しかし女性と総じて考えてしまえば大方予想はつく。
「もしかしてゴ「わーー!言わなくていい!言わなくていいから!この部屋から追い出して欲しいのごめんなさい!」
…やっぱりな。
彼女の望みを叶えるべく扉を開けると、カサカサと、ヤツの音がした。彼女が俺の背中でびくりと震え上がり、更に密着したそこに柔らかなものが当たる。…やっぱりかなり、あるな。………っていや。
「外で待ってていいですよ」
「や、人に任せておいてそれは無い!私も闘います」
しかし彼女は俺のローブから手を離さない。シンプルにやりにくいと思う反面、俺は表情筋を必死に固めている。好きな人に頼られて嬉しくない男がどこにいると言うんだ。…微妙な頼みではあるが。
「…っ狡噛くんあそこ!!」
しばらくして、俺の背後でそいつをみつけたらしい彼女が指を指し、方向を示した。
しかし、なんとそいつは、張り付いていた壁から飛び立ったのである。
危険だ! 寸分違わず俺の顔面に向かってくるそいつに、さすがに顔が引きつり、後ろを振り返って彼女の頭と腰に手を回して、思い切り踏み込んで倒れ込んだ。さすがの俺もヤツに顔面に飛び込まれるのは勘弁願いたかったし、仕留めそこなって彼女に被害がいくのも恐ろしい。
衝撃が収まり、上体を持ち上げさんをうかがえば、…俺の下で顔を真っ赤にして目をぐるぐるして、な、とか、え、とか言っていた。…可愛い。しかし直ぐさま頭上に響いたヤツの羽音に今度は顔を真っ青にして俺にしがみついてきた。…まずい。やめてくれ。やめないでくれ。アクシデントとはいえヤツに感謝するべきだろうか。…俺は今まともな思考だろうか? いや、兎にも角にもそんなことを考えている場合ではない。
彼女の手を引いて起き上がらせ、共にあたりを見回すがヤツは消えてしまった。もはやどこにもいなかった。こうなったらもうどうにもならないことを俺は知っている。
「…すみません。どうしますか、早々出てこないと思いますけど」
下を向いたままの彼女は、立ち上がった時、掴んだまま離していない俺の手を引いて、部屋を出た。
彼女は隣の俺の部屋の前に立ち、「うわっ!?」……突然ポケットを弄られた。…吃驚するだろう普通に。カードキーを手にした彼女はいとも容易く俺の部屋に入室すると、玄関に蹲ってしまった。さんが纏う雰囲気が死んでいる。
「さん、どうするんですか」
俺も中腰になってなるべく優しく声をかけて彼女の背中をさする。…しかしどうしようか、これは困る。俺が。煩悩が。彼女の下着の背中部分が手に引っ掛かる。頼む、どうにか言ってくれ。指示をくれ。
しばらく。彼女はおずおずと顔を上げて俺の顔を覗き込み、
「ここで寝かせて…」
…今のはキた。思わず生唾を飲み込んでしまった。好きな人の涙目上目遣いの破壊力に勝てるわけあるかよ。しょうがない。動悸がしてきた。助けてくれ。
いい加減、俺の頭は夢見心地から覚めた方がいいように思う。こんな役得ないだろう、と思いはするが、これは現実だ。判断を誤ってはならない。
「分かりました。じゃあ俺がさんの部屋で寝ますから、キー貸してください」
「もし、もしだよ。狡噛くんの部屋に何らかの方法であいつが来たらどうするの?私達は二手に分かれるべきじゃない」
捜査中のように真顔で頭を横に振っている彼女を説得するのは至難の業に思える。しかしそれよりも、俺に襲われる危険性の方が高いと何故頭に無いのだろうか。
「俺があんたになにかするとは思わないんですか。俺は男ですよ」
「狡噛くんそんなことしないもん。それに、玄関で寝るから居ないものと思って」
確かにしないさ、無理やりになんてしない、出来ない。そもそもお付き合いに至れていない。ついでに想いも打ち明けられていない。しかし男として、非常に自信を無くす発言だ。全くもって頭痛がしてくる程だ。俺はどうしたらいいんだ。どうするべきなんだ。だがしかし、とにかく伝えなければならないことがある。
「侵入経路としては、玄関と換気扇が一番怪しいですが」
「っ~~!!」
ばっと立ち上がった彼女に合わせて俺も立ち上がり、半ば自棄気味に観念して、スリッパに突っ込んでいた足を抜き、部屋に上がった。
…というか、この人は平気で廃棄区画で立ち回るような人なんだが、どうしたんだろう、という素朴な疑問がやっと頭に回り始めて、俺の脳みそは些か正常に戻ってきたように思われた。
「さんって虫駄目だったんですか?」
「外だったらまだいいんだよ?でも家とか寝るときは…ちょっと…」
「あっちだってわざわざ殺されに来たりしないんじゃないですか」
「狡噛くん、ヤツらは寝てる時に耳に入ってくるかもしれないって話知らないの…!?」
…初耳だが。それは確かに恐ろしいかもしれない。だがそんな話、生きてきてこの方、聞いたことがない。しかし彼女が言うのだから本当なのかもしれない。
上がってこないさんをうかがい気に掛けると、俺の視線を受けて、さんが靴を脱ぎ部屋に上がってきた。何ともいえない気持ちだ。なんでこんなに可愛いんだこの人は。俺は重傷だ、自覚はある。やはり俺の頭はまだ寝ているのかもしれない。
「…とにかく俺はソファで寝ますから、ベッド使ってください」
「分かったありがとう!私がソファで寝るね!」
「いやだから、」
「駄目だよ。だって私が悪いもん」
「別に誰が悪いわけでもないでしょう。まあ俺はラッキーでしたけど」
「え。……もしかして狡噛くんも苦手だったの?ごめん私すごく非道な頼みごとをしてた?ごめんなさい、でも、その、それなら私達は猶更一緒にいるべきだと思うの」
「いや別に俺はゴ「わーー!」…苦手なわけじゃないですが」
だから、と続きを言おうとしても、思考を諦めたらしいさんは、ソファの上に座り足を抱え込んで丸まってしまった。いやいやいや。バスローブ的に、ふくらはぎの内側が見えている。まずい。なんらかの事故が起きるか俺がしゃがんだら大変なことになる。男の前で、しかも俺はあんたのことを好いているんだぞ勘弁してくれ。
「さん、ベッド行ってください」
「やだ」
「じゃあ足降ろしてください」
「地上が怖い…」
体育座りで腕の中に頭を埋めて死んでいるさんは何も考えていないにもほどがある。この状態が続くのはまずい。しかもおそらく、彼女はこのまま寝る気だ。要は何がどうなっても大問題だ。肌蹴るに決まっている。それに女性をソファで寝かせるのだってありえない。
仕方がない。力技しかないだろう。梃子でも動きそうにない彼女に近づいて、膝の裏と脇の下に腕を入れてしっかりと抱き上げる。「わっなに!?」…思ったよりもずっと軽い。さんは結構元気に何でもおいしそうに食べているのをよく見るが、もっと食った方がいいんじゃないだろうか。
彼女は借りてきた猫のように固まりつつも、とりあえず俺にしっかりと掴まっていた。そのままベッドの上に降ろして離れようとしたが、…俺のローブの襟元を掴んでいた彼女の手が離れて行かず、ため息をつくしかなかった。彼女はジト目で俺を睨んでいる。
「狡噛くん、筋肉に物を言わせるのはイーブンじゃないよ」
「諦めてベッドで寝て下さい」
「分かった。一緒に寝れば解決する!」
「何も解決しません」
口元がひきつった。そんな生殺し、ないだろう。俺にとっては一番の苦行だ。だが苦手なものを見た彼女の頭の中にそんなことを考えるスペースは一ミリも残っていないに違いない。俺だって、苦手なものを見るのを強いられたあと性的興奮を覚えるかと言われたら愚問だ、勿論ない。だが俺は先ほどから述べているように、特にヤツが苦手なわけでもなんでもない。とにかくどうしてこの人はそんなことを言い出すんだ訳が分からない理解が出来ない、しかし心の声は届くはずもない。どうしたらいいんだ、と思っていたら、彼女が俺をひっつかまえていつの間にか上に跨っていた。
本日何度目か分からないが、意味が分からないともう一度だけ言わせてくれ。
「狡噛くん!」
唇をとがらせている彼女の腰元で結ばれているローブのリボンは緩んできていて解けそうだし、胸元の布は重力に従っていて大変、際どい。彼女の顔を下から見上げるのも非常に新鮮だ。
俺の肩に置かれている細腕に押し倒されるとは思ってもみなかった。さすが立ち回りがこなせるだけはあったらしい。さっき筋肉は反則だと言っていた気がするが。…いや、確かに彼女は筋力からではないんだろうが。華奢でも筋肉質すぎるわけでもなく、女性らしいラインを保っている美しい首回りやデコルテラインに、白い鎖骨がいつもより覗いていて、その下の膨らみへ続く肌のハイライトに目が奪われて逸らせない。どこにもかしこにも歯形を残したくなってきて堪らない。
…この人は、アレか、俺を試しているんだろうか。分かってやっている方がまだましなのではないか。
「――くん、狡噛くん、聞いてる?一緒に寝たら解決するよ」
ぐっと顔を近づけてきた彼女に驚いて急に理性が戻ってくるも、しかしまた直ぐに煩悩との闘いになってしまう。彼女の綺麗な瞳の光彩を見たが、視線は直ぐに下がってしまって、少し開いているその柔らかそうな谷間に噛み付きたくなってくる。…いや、まずい。これ以上はまずい。本気でやばい。
「わかった。わかったから、寝るから退いてくれ!」
「どこで?」
「ベッドで!っあんたもだぞ!」
「よくできました」
さんがにっこりとして眉を下げ、ごめんね、ありがとう、と俺の頭を撫でた。ウソだろ、いや、ウソではない。……だからってどうしろと言うんだ。彼女は満足げな顔で俺の上から退いて布団に潜り込み、おやすみ、とはにかんで背を向けてしまった。条件反射でおやすみと返してしまったが、布団のおかげで分かりづらくはなっているといえど、絶対に男にはありえない体のラインが出ている。
電気を消そう。見なけりゃいいんだ。
枕元の電気を消して俺も布団に入ったが、シーツが擦れる音や、聞こえてくる彼女の寝息に心が掻き乱されるばっかりで、そういう問題でもないことに気が付いた。物は試しだと耳を塞いでみるも、隣に居る人間の気配を気にしないことなんて無理だった。不可能だ。もうだめだ。
これがさんじゃなければこうはならなかっただろうに。最悪だ。…いや、最悪ではない、ないんだが、ああクソよく分からなくなってきたな、眠いのかもしれない、眠いということにしておこう、そうしたら寝れるかもしれない。……分かってるさ、俺は一睡もできないだろう。
寝ぼけたさんがひたすら俺にくっついてきて、思考回路をショートさせられてしまった俺が、翌日全く使い物にならなかったのは、また別の話である。
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