私は何かしただろうか。理由はさっぱりであるが、慎也さんが、私が彼に伸ばす手を悉く避けるのだ。慎也さんから触れてなど言語道断くれない。いってらっしゃいだけが許されている状態だ。
 なんでだろう。ここ何日か、明確な拒否も拒絶もしないけど、それこそふらっと分からないふりをして、誤魔化し避けられ続けている。目を合わせても逸らされる。言葉は普段通りだし、彼は変わらず優しいけれど、おかえりもさせてくれないし、…どうしよう。
 やっぱり帰ってきたらきちんと聞いてみよう。帰ってきてくれるから、嫌われてるわけではないと思うし、…でもベッドの片隅に寄って寝てしまうのだ、ひっつかせてくれない。今日こそ帰って来てくれなかったらどうしよう。



「ただいま」
「――おかえりなさい、」

 私はわんこだったのかもしれない、とセルフ突っ込みができる程度にはまだ冷静だ。冷静じゃない。そろそろ帰ってくる時間だ、とソファでそわそわしていた私は帰って来てくれた慎也さんに走り寄って、きつく彼に抱き着いた。冷静じゃない。

「っどうした、、」
「聞きたいのはこっちですよ、私何かしましたか」

 悲しいかな慎也さんの手が私の肩を押して離れることを推奨する。ひどいですよ。今までおかえりのキスがデフォルトだったのに。彼の手に抵抗して強く抱きしめたら、今度は結構な力技でべりっと体を剥がされた。

「何の話だ」

 声色は無駄に優しかった。正直私は今絶望している。あまりの衝撃に首を支える力もなくなった。床を見る。彼が靴を脱いで家に上がって私の後ろを行った。どうしよう。慎也さんが、私が触れるのを明確に拒否したことなんてただの一度も無かった、と思う。ちょっと吃驚している。心臓が冷えてきた。鼻の奥はつんとしてきた。どうしてだろう、何かしたんだろう、彼をここまでにさせるほどに。

、来ないのか――っな、っは?なんで泣いてる!?」

 慎也さんが戻って来て、私の顔を覗き込み、絶句している。なんで泣いてるじゃないですよ、泣いてませんもん、あなたのせいですもん。いや、きっと私のせいなのかもしれない。わけがわからない。慎也さんがわたわたしているのを見るのは楽しい。そうじゃない。なんで抱きしめてくれないんだろう。

「私のこと、嫌いになったんなら、帰って来てくれなくていいです、いいです」
「そんなわけないだろ、」

 その割には手を伸ばしてもくれないじゃないですか。ああそうか違う。私が出て行けばいい気がする。全くどうして分からない。自分がここまで対話を試みられない人間だったことも初めて知った、慎也さんは結構なあなあにしてしまうところがあるのは知ってた。多分混乱している。ボロ泣きである。靴箱から一つしか持ってない靴を出して履いてドアノブを開けて廊下に出る。忘れ物を届けたぶりに廊下に出た気がする。後ろ手でドアを閉めた。中々久しぶりだ。何だかあの時より空気が冷たい。静かだ。どうしてしまったんだろう。何をしてしまったんだろう。分からない。

「――!何考えてるんだ!」

 とにかくどこかへ行こうと思って一歩、足を踏み出したのに、ガァンと星が飛んだ。後ろでがちゃりと思いきりドアが開いて、私は思いきり後頭部を打った。このまま色々忘れたかった。死んだような声が出た。痛い。私は廊下に伸びて呻いている。悲しい。死ぬほど痛い物理的に。心も痛い。もうやだ慎也さんなんか大嫌い大好きなんで。分かんない。

「っごめん、」
「う゛ーー……痛い、です…」

 珍しくもごめんなんて言った慎也さんは、しかし私のくびねっこを掴んで、私を玄関に引き入れ戻した。ひどい。彼はしゃがみこんで私の靴を脱がしている。わけがわからない。意味がわからない。後頭部がシンプルに痛い。段々悲しみが怒りに変わってきた。なんで私はこんな理不尽な目に遭っているんだ。彼が私の靴を脱がせ終わって、それをご丁寧に靴箱にしまった。意味がわからない。もういい!

「慎也さんのばか、すかぽんたん、意味わからないです、なんなんですか私が一体何をしたっていうんですか、どうして触ってくれないんですか触らせてくれないんですか寂しいじゃないですかばか!出て行くのを許してくれないっていうなら慎也さんが出て行ってください一緒にいるのに触れないなんてどんな拷問なんですかもう知らない!!」

 全力疾走で寝室に逃げ込み鍵をかけ、扉を背にずるずる座り込んだ。何が何なのかもうわからない。どうしてこんなに彼のことが好きなのかも分からない。もし彼の心が私から離れてしまって、消えてしまうとして。けれどそれでも彼が幸せなら、それでもいい。私は凄く寂しいし、泣きたくなるけれど、一人でも、慎也さん以外の人なんて帰ってきてほしくない。もうよくわからない。寝てしまおう。寝て起きたらきっと全て変わっているに違いない。何をどこで間違ったんだろう。死んでしまいたいような気分だった。ガァンと星が散った。

「――、お前言うだけ言って――って、…うわ、」
「~~~~っ、」

 慎也さんがまた扉を開け放ったのだ。痛い。鍵の在処を知っていたのか探していたのか知らないけどとにかく扉を開け放つことに成功した慎也さんのことを正直言って二度殴り返したい。とても痛い。とりあえず、伸びている体を起こしてその場にうずくまった。もう何も言葉にならない。だって慎也さんも教えてくれない。私が言えることはもう何もない。私も聞かなかったかは分からない。

「ごめん、…ごめん」
「ごめんじゃわかりません」

 今日はごめんが多い。ごめんというくらいなら一緒に居ないで欲しい。顔を上げたら、座り込んで私と目線を合わせていた慎也さんと目が合った。慎也さんの方がよっぽどつらそうな顔をしていた。よくわからない。こんなにも慎也さんのことが分からないと思ったことなど、かつてあっただろうか。あった気がする。結婚しようとかこの人が言ったときだった。少し前じゃないか。あれから特に行き違った覚えもないし、なにかこう、日々が砂糖に侵食されすぎていて心配するくらいだなと思っていたのに、しばらくしたらこれである。人の心が移ろいすぎて何も信じられなくなってきた。

「泣かせるつもりじゃなかったんだ」

 彼がため息をついてやっと私を抱き寄せた。触ってくれた。遅すぎる。首元に彼の頭が埋まる。慎也さんのにおいだ。あったかい。好き。もっと強く抱きしめて欲しい。でももう私からいつもみたいに体をすりつける自信はない。これ以上嫌われたくない。さっきから涙が止まらない。

「ごめん。あー…、好きすぎてつらいんだ」

 骨が軋む音が聞こえた。いたい。いきなり凄い力になった抱擁に、というか、何を言っているのかも分からない。

「わかりません」
「触れるとまた、歯止めがきかなくなりそうで我慢してた。ら、…タイミング逃がして引っ込みつかなくなった」
「……嫌われてないってことでいいんですか」
「…好きだ、好きすぎて困ってるんだ。自分が自分じゃなくなりそうな感覚さえある」

 彼が、力なく私の首元にのせていた顔を上げた。自信無さげな顔をしている。意味が分からない。私はこんなに好きなのに。

「私は、慎也さんに触れられないことの方が、触れてもらえないことの方が、怖いです」
「悪かった、だが、触れると我慢できないんだ。…今だって滅茶苦茶に抱きたい。自分勝手に、お前の事を傷つけてしまう」
「っだから!触ってもらえない方が傷つくって言ってるんです傷ついたんです!お詫びを要求します、我慢しないで気が済むまで抱いてください」

 ここまで言ったのに決心つかないんだろう慎也さんが私の頭を優しく撫でる。すりつけ返す。もっと強く撫でて欲しい。私は思いっきり彼に腕を回し返して、未だに洟を啜っている。
 慎也さんは思ったよりばかでとんちんかんで臆病で弱虫で怖がりだ。確かに慎也さんは一回二回じゃ飽き足らず、どこにそんな元気があるんだというくらい、いつも元気だし、しんどい時だってあるけど、愛が無かった時なんて一度も無い。彼が私を愛していなかったときなんて一度も無い。私だってそうなのに!慎也さんはばかだ。

「私も慎也さんに触れたいって言ってるんです、どうしようもないくらい好きです、もう二度とこんな仕打ちしないでください、いじめですよ、いじめないでください」
「…嫌わないでくれるか」
「~~ばか!」

 誰かに何か言われたのかもしれない。或いはあまりに私のことをひどくしたいのかもしれない。彼はまだ迷っている。彼の顔をひっつかんでめちゃくちゃにキスして、歯がぶつかって、じいんとしみた。今日は痛いことばっかりだ。顔を離して、彼をベッドへ連行して押し倒す。もういいもん、今日は私が襲い掛かるって決めた。逆襲だ。