退勤後、官舎へ行き、彼女の部屋のインターホンを押した。…出るだろうか。絵を描いていたら出ないだろうな。あいつは集中すると聞こえない性質だ。監視官権限で入ってしまうか? …いや、よくないだろう。
「はい――あれ、狡噛さん。業務外労働じゃないですか」
どうしようかと思っていると、珍しく呼び鈴が聞こえたらしく、すんなりと扉が開いて、数日ぶりに彼女の顔を見た。ばたばたしているのもあるかもしれないが、遠慮しているんだろう、彼女はまだ一度も俺たちのオフィスを訪れたことはない。…だが、思ったよりも元気そうだ。よかった。彼女は相変わらずの口ぶりで俺を玄関に招き入れる。
「まだ半分業務だ。にしてもよく気づいたな。絵を描いてなかったのか?」
「ええ、まあ…気が乗らなくて。狡噛さんはどうしたんですか」
「事後調査だったから、これを持ってきた」
鞄から筆の入った袋を渡してやると、彼女が不思議そうに中身を取り出す。それから息を呑んで、俺を見上げた。
「…私の筆、持ち出して来て下さったんですか」
「ああ。せめてと思ってな」
「これだけが心残りだったんです――これでまた絵が描けます、ありがとうございます」
……彼女の頭に手を伸ばす。こいつは思っているよりも画家らしく、変に繊細なところがたまにある。黙って撫でられる彼女は思い返せば随分俺に懐いたもんだ。…俺も彼女と居るのは気を遣わなくていい。
今、紛れもなくここにいる彼女は、戸籍上既に死亡しているのだ。
あの翌日、俺たちは公安へ戻り、彼女は局内で急死した。自分でも言っていて可笑しいと思う。上層部が彼女の死を認めたことも妙だ。和久さんは、本人が納得しているのだから問題ないと仰った。指で彼女を撃って、死を宣告した和久さんに、“ただの偽装じゃないですか、死因をどうするかなんてよくも大層に言いやがりましたね”と憤慨していた彼女が思い出される。“意地が悪かったでしょうか、あなたの覚悟が見たかった”と和久さんは微笑んでらっしゃった。本当に和久さんには敵わない。それから数時間後には、彼女の遺体のダミーが公安から火葬場へ運ばれ――それが今、あの墓の中に眠っている。
にしても、そんなにこの事件は特殊だということか――彼女の存在を消した方が上にとって都合がよかった。彼女が潜在犯であったなら、…本当に殺されていたかもしれない。あの物質を、彼女を、犯人を、――この事件を無かったことにしたいのか、上層部はこの件が公になることを望んでいない。もし犯人が彼女の死の偽装を知ったとして、上は裁く気が無いのかもしれない。…だが、こんな形でも彼女を生かせているんだ、おそらく色相がクリアだからという理由だけじゃない、――こいつは一体何者なんだ?
すり、と俺の手に頭をこすりつけた彼女をよく観察しても、どこをどう見ても普通の人間だ。彼女の血は赤いし、肌には色素がある。狡噛さん、と俺を呼ぶ唇もピンク色だ。彼女と目を合わせても、やはり元気なように思えた、安心しているんだろう。以前の時のような感じはない。うまく過ごしているんだろうか。…こいつの性格というか生態というか、そういうものが非常に幸いしているのかもしれない。俺はすっからかんになった家に帰って、布団に入れば隣に体温がないことに違和感を覚え、無意識に朝食は二つ作り、毎朝頭を抱えて出勤しているというのに。…俺の方が参ってるじゃないか。
「思ったよりも元気そうでよかったよ」
「……狡噛さんって黒見えなかったんですか?見えないんですかこの隈が」
「あー…? …なんだ、本当だ、よく見える。俺の髪も黒だろ。寝てないのか?」
「うまく寝れないんです、…一人に慣れなくて。でも狡噛さんが言った通り、いつかと違って心は元気ですから心配はいりません」
「そうか、それを聞いて安心した。事後処理も終わって報告書も承認されて、お前に筆も渡せたし、俺もやっと肩の荷が下りた気分だ」
「そうですか。もう私の面倒はごめんですか」
「立て込んでた仕事が終わってようやく暇になった、と言ってるつもりだ」
「…一緒に寝てくれるんですか、お給料出ませんよ」
「いらない。でも何か報酬は欲しいな」
「なんですか。コーヒー一杯くらいなら朝に作ってあげないこともない」
「乗った」
靴紐を解いて家に上がり、促されるまま寝室に踏み入れた。……ちゃっかりキングサイズ買ってやがる。彼女が俺の腕を引いて、大きなベッドに背中から倒れこんだ。俺は彼女の上に重なりこむ。背にはしっかりと彼女の腕が回った。…妙なことになったもんだ。俺の胸元にぐりぐり顔を押し付ける彼女を拒否する気にならないのもどうかしてる。
――今回の事件は終了だ、もう彼女を気にかける必要も、言うことを聞いてやる義理もないというのに。あのコーヒーも、彼女と飲む方がうまかった。やはりどうかしている。…随分前からだ。
「なんだか久しぶりですね」
「…俺は仕事が終わったと言ったよな」
「そうですね、コーヒー一杯のために個人的に雇われただけの、ただの狡噛慎也さんです」
「…そんな風に抱き着いていいのか」
「嫌ですか」
「好きだ」
「……私もです」
「何が」
「うるさいな。最初はあなたのことなんて全然好きじゃありませんでしたから」
「俺だってそうだ」
「同情ですか」
「そんな訳ないのはお前が一番分かってるんじゃないか」
肘をついて上体を起こすと、彼女は俺を見上げて腕の力を強めた。いつも可愛げのかの字もないくせに、時々こんな風に可愛いことをするのをやめて欲しい。どこにも行かないさ。赤く染まった頬を撫でたら、彼女が目を逸らして何やら言いにくそうにしている。
「………しばらく一緒に居てくれませんか」
「なんだ、ずっとじゃなくていいのか?」
「え、」
目を瞬いた彼女の唇を軽く塞いだ。まずは眠ろう、ひっついて眠って、起きて挨拶を交わしたら、俺はまた朝食を二つ用意して、明日からは彼女が横でコーヒーを入れるんだ。揃いのカップも買いには行けない、不自由な思いばかりだろう。真っ赤な顔をしている彼女は、本当に、分かっているのかいないのか。
「俺は、お前が生きててくれるだけで嬉しい。ひどいやつだと思うか」
「…なんですか、…狡噛さんのせいじゃないでしょう、いいんですそのうちオフィスに遊びに行ってやりますから。誰かと仲良くなれたらプライベートで呼びつけてホームパーティーでもします」
「ああ。絵を描く部下もいるし、お前の絵のファンもいるぞ。きっと仲良くなれる、みんないいやつばかりだ。俺もここに帰ってくる」
「……いいんですか、バカなんじゃないんですか、私は長生きしたいですよ」
「最期に眠るまで一緒にいてやる。いてくれ」
「~~好きです、狡噛さん」
今度は彼女が俺の首を引き寄せて唇を塞いだ。何かを頼むときは律義に名前を呼ぶところ、当たり前のように我儘を言うところ、遠回りでもきちんと言葉にするところ、色んな危機感が足りていないところ、別に嫌いじゃなかった。俺を信じてくれる彼女を守りたいと思った。気付いたら想いが募っていた。きっとそういうもんなんだろう。
「俺も、お前のことが好きだ、」
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